おはようございます・・(^_-)-☆
今日の奈良は昨日より少し暖かいがやっぱり寒いですね?・・(^_-)-☆
今朝はマリア猫も、二階の寝室に‥(^_-)-☆
だけど私が居間に降りるとエサをくれるのでついてきました。
少し居間の部屋にいて、餌を食べて今朝は二階の寝室に?・・
青山会の奈良の町名由来の記事が・・(^_-)-☆
ー今小路町ー奈良町風土記より抜粋
国道369号線と国道754号線(奈良街道)を挟んで東西の町並みが今小路町です。
国道の東側は、北は転害門敷地より南へ中御門(通称焼門)の通りまで・・
西側は、一条通南へ南へ焼き門前までが今の今小路町です。
古くは、東大寺の築地で仕切られ南は西大門、中御門、転害門があり、東大寺の敷地内で西側だけに人家が並んでいたようです。
平重衡のなんと焼き討ちで、東大寺の伽藍の多くが失われ、東大寺の勢力も弱まるにつれて東側に人家が建ち一つの町を形成するようになったので、「今小路」という町名が付けられたのではないかというのが通説です。
転害門の門前に「いとくゐや」という屋号の和菓子屋さんがります。
随分変わった名前の店ですが、この店の屋号の由来は、威徳井という井戸の名前からつけられたとのことです。
今小路町の南側の押上町に吉城川が流れていますが、この川に架かっている橋が威徳井橋です。
威徳井は、この橋の南側にあり、弘法大師が掘ったと井戸であると言われ、その遺構が道路の工事で失われ、橋の北側に移され、押上自治会会館の前に小さな地蔵さんと井戸枠が残されています。
この井戸は名水であったと言われています。
この通りも昭和40年、50年代ころまでは、市場があり呉服店、洋服店などがあり賑わっていました。
現在も南都銀行手貝支店、郵便局、レストラン・天平俱楽部がありこの街道の中核ををなしています。
今は、天平倶楽部というレストランになっていますが、戦前までは、菊水楼とならぶ奈良随一の旅館「対山楼」がありました。
宿帳には、伊藤博文、山県有朋、大山巌といった明治の元勲や、正岡子規、岡倉天心、滝廉太郎などの名があり、超有名人が必ず泊まった旅館でした。
その俱楽部の中に子規の庭があり無料で入れますよ。
肺結核を病む身でありながら日清戦争の従軍記者として中国の金州へ赴いた子規は帰りの船中で喀血。
瀕死の状況に陥り、松山へ帰郷した後、小康を得て奈良を訪れましたが、やがて歩行困難となり病床につきます。
奈良の旅は子規にとって生涯最後の旅となり、いわば人生の分岐点となった印象深い地であります。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」もこの対山楼で作ったともいわれていますね。
なぜかというと泊った対山楼で東大寺の鐘を聞いて作ったとも?・・
そんな有名な町でもあるんですね。
今朝の血圧は、149-81、脈拍は、86、血糖値は89でした。
体温は36.5℃でした。
昨日の散歩数は、29081歩でした。
やっぱり寒いと血糖値は高いですが、寒くて調子が悪いので、朝風呂に入りますね?・・
今日も良い日でありますように・・(^_-)-☆