江戸川教育文化センター

「教育」を中心に社会・政治・文化等の問題を研究実践するとともに、センター内外の人々と広く自由に交流するひろば

2011年3月11日 14:46 分 その時私は・・・

2021-03-10 | 随想


 東日本大震災 あれから10年が経とうとしている。
その日は突然の揺れに驚いた。
職員室の机の引き出しが一気に飛び出し、棚にあった物が音を立てて飛び散り落ちてきた。

経験したことの無い激しい揺れが続いた。
教室からは悲鳴も聞こえてくる。
職員室にいた私を含めた教員は直ぐに校庭に避難と思い、放送マイクに向かったが校長は部屋から出てこない。
「校長先生!校庭に避難の放送します」と云うとようやく出てきて、「机の下にもぐり落ち着いて教室に居なさい」と云う放送をしたのだ。

長い揺れが続いて止まった時、「校庭避難」と思ったが、間もなくまた大きな揺れが始まった。
外に目をやると近くの15階建ての細い高層マンションが、轟音を立て左右にしなって揺れている。
しばらくして、揺れが止まった。

それでも校長は「校庭に避難」と放送しない。
「全く!どうして!」と思ったが、あるクラスだけが校庭に避難開始を始めた。
ベテラン女性教師のクラスだ。
それを察知した他のクラスも次々に校庭に避難を始めた。
防災頭巾をかぶり、上履きのまま昇降口に押し寄せる子ども達。
避難している最中にも大きな揺れが続いた。
生きた心地がしないような感じだった。

そこで、初めて校長は「校庭避難」を放送した。
全員が避難した後も、大きな揺れは断続的に来ていた。

大きな揺れが続くなか、途切れなくかかってくる電話対応に追われた。
受けても受けても次々にかかってくる。
子ども達への対応が第一なので無視していたが、余りにも鳴りやまないので仕方なく電話対応専門に当たった。
電話の全ては保護者からで子ども達の安否確認だった。

この日は六年生が卒業旅行で「ディズニーランド」に行っており、その問い合わせも多かった。
電話連絡もないしまた出来る状況でもなかったと思う。
「連絡はありません」「分かりません」としか答えようがなかった。

保護者の中には、「学校のホームページに状況をアップ」しろと云う者もいた。
私が「今は児童の安全や対応で出来ない」と答えると、「直ぐに出来る筈だ」と言い張る。
非常識も甚だしい保護者だが、その夜学校にきて私に文句を言いに来た。
校長が教育委員会の許可がないと出来ないと答えると黙ったが、私の対応が悪いと文句を言ってきた。
それぞれの立場で考え行動するから、配慮する余裕もないとは思うが殺気立ちを感じた。

ディズニーランドに行った六年生は、バスを待っていた2クラスは夜の7時過ぎ帰ってきた。
副校長の話では、駐車場が液状化で車のタイヤが埋まるくらい、水に浸かっていたそうだ。
まだ買い物をしていた2クラスは9時過ぎになった。

半数近くの教員は家にも帰れず、学校に泊まることにした。
保健室の布団やソファーに在りつけない同僚4~5人で、一晩中テレビをつけっぱなしにして、職員室の机に突っ伏して寝たが余震が何度もあって寝られなかった。

翌朝電車が動くと家に帰ったが、2階の部屋が大きな揺れで、本棚から全ての本が床に飛び散っていた。
家族に聞くと外に飛び出し無事だったと、他には食器が飛び出し幾つか割れたが大きな被害も無かった。

しかし、3月13日 原発事故が起きた。             「



<デラシネ>




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