《震災遺構 浪江町請戸小学校の見学》
ここも私は三度目の見学となった。
学校周辺がどんどん変わっていきススキの原っぱだった所は整地している最中だった。
大平山が近くに見えて見通しの良い広大な土地がひろがっている。
ここに住宅が出来るのか、工場が出来るのかは分からないが防潮林にする松の苗木畑も広がっていた。
校舎階段下には今年も咲いたと思われる直径20cmほどの桜の木が自生し時の流れを感じる。
壁も天井も津波で破壊され、無残な様子の校長室の倒れた大きな金庫。
給食室の大きな錆びついた数個の大釜が悲しげに見えた。
体育館は卒業証書授与式の看板、床はめくれ上がりぼこぼこだ。
一階は吹きさらし状態なので、遺物も日々劣化と風化を重ねていくと思う。
校舎二階は教室がそのまま残されている。
津波はわずか10cmの浸水だったので、当時を偲ぶ展示になっている。
卒業生の黒板に書かれたメッセージもそのまま展示されている。
黒板のメッセージを映したパネルもあった。
「請戸復興する!!武士道の国 日本 陸上自衛隊○○連帯」の展示が。
片付けに関わったと思われるがやや違和感があった。
請戸小は福島第一原発から5.7kmの近さ、二階教室から建物の様子や廃炉作業のクレーンもはっきりと見えた。
《大堀相馬焼の里 見学》
この地区の神社の立ち姿が美しかった。
また入口には復興祈念碑があった。
少し歩くと大堀相馬焼の窯元が何軒も集まっていた場所に着く。
立派な建物だった住居や釜小屋は廃墟と化していた。
中を覗くと焼き物が棚に陳列されたままや床にたくさん散乱していた。
慌てて避難した様子が分かり物悲しい。
放射線量が高くて立ち入りは短時間だったが、歴史の重さと深さを感じた不思議な空間だった。
ここはそのまま「原発被害の遺構」として残しておく価値があると思った。
《車中から見た復興の様子など》
かつて道の両側は雑木や雑草に覆われた耕作放棄地と、ススキやセイタカアワダチソウが延々と続いていた。
それが汚染土を詰めた黒いフレコンパックの巨大な山が席巻していった。
それが撤去され代わって目につくようになったのはソーラーパネルだった。
多くのパネルは多大な電力を生み出しているが、蓄電出来ないので捨てられている現実もある。
田畑も耕作され稲を刈り取ったあとの田んぼや、野菜を収穫したあとの畑も多く見られた。
しかし、除染不可能な地域も多くあり、山林の除染は手つかずのまま放棄されている。
福島県の広さは東京・千葉・神奈川・埼玉の4県合わせたよりも広い。
13年半の歳月はかつての住民が元の土地に戻ること殆ど不可能にしてきた。
この福島の復興をどう考えたらよいのか。
思いつくことは伝えることしか出来ないもどかしさだ。
核燃料デブリは人も物も近づけないほどの強大な放射線を出し続け、直接デブリに触れた「核汚染冷却水」の海洋投棄はこれからも続く。
880tのデブリは試験的に0.7g取り出せただけだ。
どれだけの期間冷やし続ければ良いのか、海洋投棄が終るのは何年後になるのか誰も全く見通せない。
石棺で覆って動かさないことも選択肢の一つとさえ思う。
核燃料デブリが存在する限り福島の復興と未来は、100年経っても方向が見通せず終わりのない模索が続くに違いない。
バスの車中から見えたススキの原っぱと白い穂は、大きく静かに波打つように揺れてとても美しかった。
以上
2024/12/03
<デラシネ>
ここも私は三度目の見学となった。
学校周辺がどんどん変わっていきススキの原っぱだった所は整地している最中だった。
大平山が近くに見えて見通しの良い広大な土地がひろがっている。
ここに住宅が出来るのか、工場が出来るのかは分からないが防潮林にする松の苗木畑も広がっていた。
校舎階段下には今年も咲いたと思われる直径20cmほどの桜の木が自生し時の流れを感じる。
壁も天井も津波で破壊され、無残な様子の校長室の倒れた大きな金庫。
給食室の大きな錆びついた数個の大釜が悲しげに見えた。
体育館は卒業証書授与式の看板、床はめくれ上がりぼこぼこだ。
一階は吹きさらし状態なので、遺物も日々劣化と風化を重ねていくと思う。
校舎二階は教室がそのまま残されている。
津波はわずか10cmの浸水だったので、当時を偲ぶ展示になっている。
卒業生の黒板に書かれたメッセージもそのまま展示されている。
黒板のメッセージを映したパネルもあった。
「請戸復興する!!武士道の国 日本 陸上自衛隊○○連帯」の展示が。
片付けに関わったと思われるがやや違和感があった。
請戸小は福島第一原発から5.7kmの近さ、二階教室から建物の様子や廃炉作業のクレーンもはっきりと見えた。
《大堀相馬焼の里 見学》
この地区の神社の立ち姿が美しかった。
また入口には復興祈念碑があった。
少し歩くと大堀相馬焼の窯元が何軒も集まっていた場所に着く。
立派な建物だった住居や釜小屋は廃墟と化していた。
中を覗くと焼き物が棚に陳列されたままや床にたくさん散乱していた。
慌てて避難した様子が分かり物悲しい。
放射線量が高くて立ち入りは短時間だったが、歴史の重さと深さを感じた不思議な空間だった。
ここはそのまま「原発被害の遺構」として残しておく価値があると思った。
《車中から見た復興の様子など》
かつて道の両側は雑木や雑草に覆われた耕作放棄地と、ススキやセイタカアワダチソウが延々と続いていた。
それが汚染土を詰めた黒いフレコンパックの巨大な山が席巻していった。
それが撤去され代わって目につくようになったのはソーラーパネルだった。
多くのパネルは多大な電力を生み出しているが、蓄電出来ないので捨てられている現実もある。
田畑も耕作され稲を刈り取ったあとの田んぼや、野菜を収穫したあとの畑も多く見られた。
しかし、除染不可能な地域も多くあり、山林の除染は手つかずのまま放棄されている。
福島県の広さは東京・千葉・神奈川・埼玉の4県合わせたよりも広い。
13年半の歳月はかつての住民が元の土地に戻ること殆ど不可能にしてきた。
この福島の復興をどう考えたらよいのか。
思いつくことは伝えることしか出来ないもどかしさだ。
核燃料デブリは人も物も近づけないほどの強大な放射線を出し続け、直接デブリに触れた「核汚染冷却水」の海洋投棄はこれからも続く。
880tのデブリは試験的に0.7g取り出せただけだ。
どれだけの期間冷やし続ければ良いのか、海洋投棄が終るのは何年後になるのか誰も全く見通せない。
石棺で覆って動かさないことも選択肢の一つとさえ思う。
核燃料デブリが存在する限り福島の復興と未来は、100年経っても方向が見通せず終わりのない模索が続くに違いない。
バスの車中から見えたススキの原っぱと白い穂は、大きく静かに波打つように揺れてとても美しかった。
以上
2024/12/03
<デラシネ>