
私が最初に見つけたのは、慈雲寺という曹洞宗の寺の墓地にあった墓石だ。
何しろ、そこの寺に在るということだけを調べて訪れた私は、墓地の手前から奥の方へ歩んだがそれらしきものが見つからない。
イメージとしては、立派とまではいかなくても、何らかの表示はされているだろうと考えていた。
ところが、実際はそんなものではなかった。
諦めて帰ろうとしたが、とりあえずは全てをザッと見てからにしようと、無縁仏が集められている所へ向かった。
すると、のっけからドキッとする様な文字が彫られている墓石を発見。
正面の方は風化が進み、石の半分ほどが欠け落ちていたが、左側面を見ると、「徳川臣」という文字がはっきり読み取れる。
これだ!
徳川幕府に忠義を尽くす旧幕府方の武士に違いない。
高さが60㎝程の小さな墓石であり、遺骨の存在すら不明な無縁仏群の一角にあろうとも、戊辰戦争で戦い命を落とした若者が存在した証である。
帰宅して資料を丁寧に見ると、やはりこれは「脱走派」の墓石に間違いなかった。
資料の写真では正面も写っており、そこには「慶應四戊辰年 空 清閑院義全道白信士霊位 徳川家臣墓閏四月三日」と刻まれていたという。
私が見た時は、先の写真の通りほとんど正面の文字は読み取れなかった。
このままの状態だと、墓石の正面のみならず側面も欠落するのは時間の問題だと思う。

次に足を運んだのは、東金街道を挟んで南側の了源寺。
この寺は浄土真宗本願寺派だ。
境内には親鸞聖人の銅像や鐘楼堂がある。
この鐘楼堂は、かつて享保年間に徳川幕府が大砲を試射するために造ったと言われている台座に建てられたもので、江戸時代から明治4年まで「時の鐘」として毎日定刻に鐘が鳴らされていたという。
余談ではあるが、現在では夕方に防災無線のスピーカーから型通りの音楽や言葉が流されている。
こんなものより、お寺の鐘の音が響いてきたら、どんなに情緒あるものかと思う…。
ここでの「脱走派」の墓石は容易に発見できた。
鐘楼へ上がる石段のすぐ下に在ったからだ。
もっとも、後で調べたことだが、この墓石もある時は八つ手の葉で覆われて見つけにくかったようだ。
寺としては、無縁仏の一つとして置いてあるのだろうが、保存状態は先の慈雲寺のものよりは良い。
しかし、既に石の端の方からヒビ割れが起きている。
このまま放置しては、やがて大きな破損につながるであろう。
ここの墓石に刻まれた文字は、しっかり読み取れた。
正面には、「盛忠院釈貫義居士」
右側面には、「明治元戊辰天閏四月 徳川家臣菅野鋭亮源元資 行年二十八才戦死」とあった。
これも後で知ったことだが、菅野は戦いで傷付き官軍の手に落ち、斬首されたという。
若干28歳、何と儚い命だったことか…。
これらの墓は、小さく素朴なものではあるが一世紀半もの間 、その土地で守られてきたのである。
それらの存在によって、過去の歴史の事実が後世にも伝えられているのだ。
「脱走派」の墓は、この他にも市内にはまだ残されている。
中には、傷付いた身を民家で匿われながらも、追っ手を予測して自害した者もいたようだ。
彼は、後になって当家により厚く葬られたという。
残された資料によると、いくつかの例外を除いては「脱走派」の墓は無縁仏となっているようだ。
さもありなん、当時の混沌とした状況の中でそれ以後も含めて遺族が墓を訪れることなどほとんどなかったに違いない。
それは、官軍の方とて同様である。
彼ら若者たちは、江戸から明治への時代の荒波に呑まれて露と消えた儚い命だったのだ。
今まで私は、敢えて「脱走派」としてきたが、記録によると「脱走様」と言われてきた歴史もあるようだ。
これを、土地の人は「ダッソサマ」とも呼んでおり、その言い伝えが今日でも残っているらしい。
私は未だ全てを調査したわけではないが、その都度述べてきたようにこれらの墓石は消滅の危機にある。
現在は寺のご好意によって残されてはいるものの、さらに風化対策等の保護措置を講じなければ貴重な文化遺産は消えてなくなる。
市当局に強く訴えたい。
<すばる>