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明日は「母の日」ですね。
私が母を強く意識したのは、私の幼少時の母と晩年の母です。
母は9年前に99歳で他界している。
戦時中食料難に襲われたわが国では欠食児童が多くいた。
欠食児童とは、お昼時になっても弁当のない子のことです。
学校側が時々ふかし芋を提供したりして最善は尽くしたのであった。
だがそれは毎日のことではなかった。
母は着物や貴金属を小出しに売ったりして、食料を得ていた。
買出しといって、農家の人が喜びそうなものを持って、食料と物々交換をするのだ。
私も母のこの買出しに同行したことがある。
農家の縁側に風呂敷包みを解いて和服を並べて、品物の良さを説明している。
「商談」がまとまって、和服が玉ねぎとジャガイモに化けた。
それらを担いで汽車に乗って岐路に着く。
終着駅では警官が一斉に取調べを行い、折角手に入れた食料を片っ端から没収するのだ。
そのときは、幸い私が担いでいたリュックの中身は調べられずに通過したのだった。
芋のツルはもちろんのこと、配給されるとうもろこしの絞りかすさえ食べたのだった。
母は苦心惨憺して、3人の子供に何かしら食べ物を用意した。
私は母のこの苦労を知っているから、食べ物に不平を言ったことがありません。
それはこの歳になっても、続いている。
母が作ってくれた弁当で一番嬉しかったのは、牛肉の佃煮だ。
甘辛く煮詰めてあって、生姜の香りがしたのを記憶している。
妻に頼んで作ってもらうことがあるが、似て非なるものが出来上がる。
母の晩年については、いずれ機会があれば書きます。
写真は、カルガモ母子と、2枚目は今夜行われる「母をしのぶ会」の”会場”です。
フジの木の下のテーブルには娘が妻に買ったカーネーション。
メインディッシュは、母が生前最も好んだ「おいなりさん」と「巻き寿司」だ。
私が母を強く意識したのは、私の幼少時の母と晩年の母です。
母は9年前に99歳で他界している。
戦時中食料難に襲われたわが国では欠食児童が多くいた。
欠食児童とは、お昼時になっても弁当のない子のことです。
学校側が時々ふかし芋を提供したりして最善は尽くしたのであった。
だがそれは毎日のことではなかった。
母は着物や貴金属を小出しに売ったりして、食料を得ていた。
買出しといって、農家の人が喜びそうなものを持って、食料と物々交換をするのだ。
私も母のこの買出しに同行したことがある。
農家の縁側に風呂敷包みを解いて和服を並べて、品物の良さを説明している。
「商談」がまとまって、和服が玉ねぎとジャガイモに化けた。
それらを担いで汽車に乗って岐路に着く。
終着駅では警官が一斉に取調べを行い、折角手に入れた食料を片っ端から没収するのだ。
そのときは、幸い私が担いでいたリュックの中身は調べられずに通過したのだった。
芋のツルはもちろんのこと、配給されるとうもろこしの絞りかすさえ食べたのだった。
母は苦心惨憺して、3人の子供に何かしら食べ物を用意した。
私は母のこの苦労を知っているから、食べ物に不平を言ったことがありません。
それはこの歳になっても、続いている。
母が作ってくれた弁当で一番嬉しかったのは、牛肉の佃煮だ。
甘辛く煮詰めてあって、生姜の香りがしたのを記憶している。
妻に頼んで作ってもらうことがあるが、似て非なるものが出来上がる。
母の晩年については、いずれ機会があれば書きます。
写真は、カルガモ母子と、2枚目は今夜行われる「母をしのぶ会」の”会場”です。
フジの木の下のテーブルには娘が妻に買ったカーネーション。
メインディッシュは、母が生前最も好んだ「おいなりさん」と「巻き寿司」だ。
あのころ(戦後まもなく)母親にとってはとても辛い時期だったと思います
我が家は海外からの引揚げでそれこそ無一物になってしまって
両親の心中を思うと涙が出てきます
きっと今の私だったら対処できなかったかも・・・・
無理して無理して好き勝手させてもらって育ててくれた母親の偉さがしみじみ判るのはもうじき母親に会える年齢になってからです
何才になってもきっと母親の大きさには追いつかない私です
貴女のように、その母の苦労を忘れず、思い出しては感謝してくれて、お母様は苦労のし甲斐があったというものです。<何才になっても母親の大きさには追いつかない>のは、私も同じです。
やはり買出しや、着物をお米に代えてもらうために農家に行く母について行った事が何度かありました。
母の日そんなお母様への感謝の気持ちでの、お母様の藤の下での宴は、きっと彼岸のお母様に届くでしょうね。
戦後の混乱期のことはよく憶えておりません。
でも年配者から、いろんな事を聞きますと、昔の
母親(だけではないでしょうが・・)はほんとに
強かった気がします。
poloさんのお母様を思われるお気持ちは充分に
届いていることでしょう。
緑濃く茂った藤の木の下での偲ぶ会、素敵ですね。
先ほど、一人を除く家族全員7人が集まって、母を偲ぶ会が終わりました。3世代が揃いました。皆、母の好物だった”おいなりさん”と”巻き寿司”を頂きました。日曜日より土曜日が良いとの希望があって、一足先に終わりました。
ご主人のお母様もいずれは逝かれます。後悔のないように、日々を送ると良いですね。お互い大切な命ですから、今日この時を大切に。
戦時中、私の両親はまだ幼い年でしたが話は聞かされてます。
母は山形の農家の生まれなので食べ物に困ったことはなかったそうです。戦後しばらくしてからも学校にお弁当を持ってこられない友達がいた話も聞きました。
父は疎開先で食べ物がなかった話を生前よくしていました。
苦労した人たちが頑張ったからこそ今の恵まれた時代になったのだと感謝しなければいけませんね。
父には伝えることが出来なかった感謝の気持ち、母には伝えたいと思います。
そうですね、昔の人たちがよく働いて今日まで頑張ったから今のような楽な生活があるのだから、ご老人や去った人たちに感謝するべきでしょう。
お父様に伝えられなかった分を上乗せして、お母様に感謝の気持ちを伝えるのはとても良い考えだと思います。