アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

日本に帰国

2012-09-14 02:59:28 | 旅行
1992年に夫と2人で日本に帰国しました。ハリエット夫妻は寂しがっていました。その時にいただいたカードです。
アメリカはそれぞれ用途に応じたカードがありました。

 


お誕生日カードや便箋で書いた手紙もたくさんもらいました。
残念なことにハリエットさんは書いた日付が書いていなく、封筒に押されている消印で日付を推測していました。




一時帰国

2012-09-12 23:55:17 | 旅行

アメリカで5年間いるうちに私は日本に一時帰国したことがありました。長女が下宿していたアパートにいた時に、ハリエットさんから送られてきたカードです。

表紙


  1990年に来たカードですが、1991年にも同じように下宿先にカードが送られてきました。
その時にハリエットさんの知り合いの息子さんが日本にいるので会うようにと書かれていて、娘たちと一緒に目黒の駅前のお店で会ってお話をしました。

彼の仕事は東南アジアにあるアメリカンスクールの生徒達の卒業記念の注文を受けたり、友達と英会話のテープを作り販売などをしていました。
また、日本のテレビのドラマに少し出て、その時に知り合った女優さんが、彼の実家へ遊びに来たことなどあり、彼はとても日本語が上手でした。

日本に私たちが帰国したあと、我が家に泊まりで遊びの来たことがあり好青年でした。
その後、アメリカで結婚した話を聞きましたが、我が家に来た以降お会いしたことはありません。


ハリウッド

2012-09-12 03:51:56 | 旅行


俳優 アラン・ヤングさんがハリウッドで活躍していたときの写真です。当時は「ミスターエド」馬が話すテレビドラマで話題になっていました。
日本の関西地方の放送局でも取り上げ放映され人気になったそうです。ハリエットさんのお手紙の中で知りました。
撮影所の中で弟のアラン・ヤングさんと一緒の写真もあります。
昔の写真でお二人とも若く、アラン・ヤングさんは1919年生まれですので現在は93歳になります。









手紙

2012-09-11 04:15:40 | 旅行

ハリエットさんから1991年から1999年までたくさんのお手紙をもらいました。エレンさんもお手紙を書くことが好きな人でしたが、ハリエットさんも同じでそして達筆でした。

ハリエットさんの弟は映画俳優 Alan Young で、お姉さんが亡くなられたお手紙を頂きました。
ハリエットさんから弟さんのお話をいつも聞いていましたが、一度もお逢いしたことがありません。

Jun24,2002
Dear Masako and Hisashi  (日本文に翻訳した内容)

 私の姉ハリエットが死去いたしましたことを悲しみのうちにお知らせ致します。
私の姉が静かに亡くなる折に、私は姉の自宅にいて姉のそばにおりました。
姉はあなた方のことをいつも話しており、また あなた方の訪問をとても喜んでいました。
姉はあなた方をとても愛しておりました。
私は姉に示されたあなた方の友情に深く感謝申し上げます。

Alan Young

ハリエット夫妻との想い出はたくさんありますので、これから写真とともに書いていきます。

私のHPにある 第四章 ハリエット先生 も一緒にご覧ください。




お誕生日祝い

2012-07-31 06:45:58 | 旅行
ハリエットさんの夫チャールズさんは私の夫ひさしと仲が良く
ハリエットさんとチャルズさんからお誕生日のお祝いにプレートをプレゼントされたことがありました。
夫の誕生日は4年に1度の2月29日です。
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こんな素晴らしい贈り物をもらったのは初めてでとても喜んでいました。
私たちはよくディナーにお招きしてお食事をご一緒しました。遠くに出かけるときはいつも夫が運転手でした。
私はあまり英語で会話が出来なくて、夫がご夫妻と話し合い、そして私に通じていました。
おそらく、夫がいなかったら深い付き合いはなかったと思います。

私もハリエット先生にいただいたのもがあります。
それが大切にしている、ハリエット先生が結婚するときにお母さまからお祝いにいただいたディナーセットの食器の一部の小さいお皿です。
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乗り換えの空港で・・

2012-07-04 07:47:36 | 旅行

観光中に、プラハから娘へ、国際電話をした。「チェコの首都プラハは街全体が美術館で建物を見ているだけでも楽しい。

是非、これからの旅行にはプラハを観光するといいわ」と興奮して伝えていた。

首都プラハは、ヨーロッパの中世の雰囲気が、そのままが残っている建物が多い。戦争で爆弾が落とされなかった。

ベトシーンの丘からの眺めは、たくさんの塔が林立していた。「百塔の町」と言われている。このような都市は他の国にはないと思う。

泊まったホテルの朝食はバイキングで、美味しいものばかりであった。

ソーセイジは種類も多く、ベラさんがランチにだしていた、蒸しパン だんぶりん は柔らかく美味しかった。だんぶりんとベラさんが言っていたが、

クリドリーキのことでチェコ料理で有名です。   朝食、昼食、はベラさんの手作りで、夕食は、甥の家などで、チェコ料理をご馳走になった。

ホテルの朝食は美味しいので少し食べ過ぎだったが、お昼は簡単にして、夕食は中華にした。



2001年9月12日

朝7時20分にホテルのチェックアウトして、タクシーで空港へ。

フラントフルトで乗り換える。飛行機は日本人が約7割。

夫の手荷物と一緒に一人で番をしていたら、

「〇〇〇 マサコさん 大至急〇〇までお越しください」

フランクフルトの乗り換え場所で待っていると、放送された。びっくり仰天・・

なぜ私の名前が呼ばれるのか わからない。帰りの手荷物は増えて多く、二人分を抱えることができない。どうしよう どうしよう と思っておろおろしていると、また、

「〇〇〇 マサコさん、〇〇〇 マサコさん 大至急きてくだい」

と、大きく放送された。

そのうちに、夫の顔が見えてきた。「悪い、悪い、マサコの航空券をおとしてしまった。いま話してきたから」と、いう。

フランクフルトで、私の名前が大きく放送されるとは、パスポートと空港券すべて夫が所持していて、身分証明するものがないと、いつもほんとうに心細かった。

自分のものは持ちたいと言っているのだが・・ 海外旅行は各個人で持たなくてはならない。

これも、予想もつかないことであった。10年前のことなのにしっかりと覚えている。

この旅行からパスポートや航空券は各自で持つことになった。

2001年9月13日 東京成田に午前8時着、お昼には家に着いた。このあとしばらく空港はテロのため飛行機が飛ばなかった。


ベラさんにお礼の電話をすると・・・・

2012-07-03 06:31:32 | 旅行
2001年9月11日

今日はプラハ観光最後の日。

★ユダヤ人街、墓地をみる。

ユダヤ人は迫害を受け、墓地は狭い敷地しかなかった。何層にも重なったお墓であるという。

★旧市街地にもう一度行き、天文時計台をみる。

★ミューシャ美術館  聖ヴィート大聖堂に、ミューシャのステンドグラス窓がある。

★市民会館

★国立博物館 鉱石で有名


市民会館の中を見学、出入り口のところに、ステンドグラスがあった。
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正面が国立博物館。この大通りはプラハの春で有名な場所である。
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この通りはよく歩いた。右側の奥のビルの二つ目手前のところを入るとホテルがある。

夕食を食べたり、お土産を買ってホテルに帰り、ベラさんとフランクさんにお礼の電話すると、

「テレビをすぐにつけなさい」
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画面が出てきた。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の一場面。

テレビドラマの一場面だと一瞬思った。

チェコの国の泊まったホテルで見たことは、強烈な印象を受け、一生忘れることはないでしょう。


芸術と歴史の街 プラハ

2012-07-02 05:11:55 | 旅行
プラハの中心地の、国立博物館のそばのホテルに泊まっているので、観光にはとても便利だった。
街全体が美術館ののようだだった。建物が素晴らしい。広くないので次々に有名な場所を見て歩く。

1日の観光した場所を箇条書きにしてみる。

★ベトシーンの丘

★聖ヴィート大聖堂 

★聖イジル修道院

★旧王宮

★聖ミクラーシュ教会

★カレル橋

★旧市街広場、旧市庁舎、展望台に昇る。天文時計をみる。

★ヤンフス像、

★火薬塔


旧市庁舎の天文台の前で
時間になると大勢人があつまる。高いところにある二つの窓から聖人が顔をだす。
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写真はカレル橋











プラハ観光

2012-07-01 08:57:21 | 旅行
2001年9月10日~11日

6時30分起床。タクシーでベトーシーン丘へ行く。プラハの街が見渡せる。
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ベトシーン公園の展望台の近くにあるヴァヴジネシェ教会

朝早いので人がいない。本当に素晴らし眺めであった。屋根は、だいたい同じ色で小さい塔がたくさんある。

ここからゆっくりと丘をくだる。先ず、プラハ城をめざす。
途中で、修道院の建物などあるが、外から眺めるだけ、お城の近くにくるともう観光客が大勢いた。

聖ヴィート大聖堂から見学。
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写真は、他の塔を登った時に写す。大聖堂は壮大なゴシック様式、1929年に完成。

窓はステンドグラスである。私の大好きな世界。
この窓の中にチェコの芸術家のミューシャの窓があった。大勢の人が群がっていた。


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ミューシャのステンドグラス作品。あちこちで観光客が説明を聴いている。日本人の観光客もいた。

次は、同じ城の中にある旧王宮を見学、天井の模様が面白い。


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ゴシック様式である。 敷地の中には大統領の官邸もあり、建物の前にはチェコの旗がかかげてあった。



フランクさん生家

2012-06-30 06:49:00 | 旅行
2001年9月8日~9日

朝8時にセチン出発。運転はいつもベラさんです。話をしながらの運転で慣れているらしい。

賑やかなセチン中心地から離れて広々した、田園地帯に入っていく。対向車も少ない。

先ず、最初に今晩泊まる家に行き、ランチをご馳走になる。


あかるい奥さんである。美味しいランチを食べた後、次はフランクさんの生家へ、

今は、81歳になる兄嫁と甥が住んでいる。娘夫婦や孫たちがあつまり大勢で出迎えてくれた。

夕食をご馳走になり、村の集会場でダンスパーティーがあるからと一緒に行く。



村の人たちが大勢あつまり、楽しそうにダンスをしたり、話し合っている様子を見て、田舎の人たちの娯楽の一つだと思った。
翌日の朝は、フランクさんに村の中心地を案内してもらう。やはり教会がある。

朝早いので人が少ない。セチンの賑やかなところと比べると、建築物は少ないが、綺麗な建物である。

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それから、フランクさんのお姉さん87歳に会いに行く、大きな農家で、びっくりする。

キッチンには、大きな煉瓦作りの暖炉トーチカがあり、全部屋を暖めお料理もできるようになっていた。

お昼は、フランクさんが親戚の人たちをレストランを借り切り、ランチのご招待をする。

幼児の子も一緒の家族など、68人の人が集まった。



上の写真の左側にいる、上席のお姉さんと並んで座らせられた。お料理も次々にでてくる。

ベラさんとフランクさんは子供さんがいないので、皆さんにいつもお小遣いをあげている。

ベラさんは袋をつくり、一人づつに手渡していた。いくらお金持ちでもなかなかできるものではない。

フランクさんの農家の様子、集会場でのダンスパーティー、レストランのお食事、

どれをとっても物珍しい事ばかり、いい体験が出来てよかったと思った。

レストランからペーターさんの運転で、ベラさんと一緒に、チェコの首都、プラハ まで送ってもらった。