アメリカ生活の想い出

1987年から5年間アメリカで過ごし全く英語が出来ないのに、地元のお年寄りと知り合い学び楽しく過ごした記録です。

エレンさんの手紙 89歳

2009-02-26 13:04:09 | Weblog
26 July 2004
Dear Masako
 私の母は、貴方が母を大変敬愛くださり、貴方の WEB SITE  に、母の思い出を書き込み入れてとお考えであると知ったらきっと喜ぶことでしょう。
母はシニアセンターでの貴方との楽しかった折々の会話をよく私に話しておりました。
勿論貴方がお好きなように母の写真や手紙をお使いになっても結構です。
もし、貴方がもっと母の写真をお望みなら、どうぞお知らせください。私は沢山持っております。
貴方の WEB SITE のアドレスをお知らせいただければ有り難く存じます。
Sincerely
Peter

初めて頂いたエレンさんの手紙(89歳)

15 / November / 1989
Dear Masako
 素敵なカードとそして何時も私のことをお気遣い下さり有難うございました。
私はうっかり転び、顔を激しく打ってひどい顔になってしまいました。
シニアセンターに行き皆さんにお会いすることが出来ませんでした。
今はすっかり良くなったので来週には戻りますのでお目にかかれるでしょう。
貴方は本当に可愛い女性で大好きです。ご一緒に仕事が出来てとても嬉しいです。
With sincere wish & Love from Ellen




第九章  エレンさんの手紙

2009-02-25 11:14:19 | Weblog
はじめに  
私がエレンさんにお会いしたのは1987年から1992年までカルフォルニア州ニューポートに住み、エレンさんに1989年のシニアセンターでした。その時はエレンさんは89歳(1900生まれ)でした。
89歳から101歳までに頂いたお手紙を日本文に訳しご紹介します。
私が日本に帰国した後の手紙が多く、私の手紙をエレンさんに送ると必ず返事のお手紙を頂き、いつも感激しておりました。
2002年4月、エレンさんの息子さん(ピーター)から頂いたお手紙からご紹介します。

23rd April 2002
Dear Masako
 大変申し訳ありませんが悪いニュースをお知らせします。
母エレンが重い流行性気管支炎で入院し亡くなりました。母はH病院で2週間治療のあと快方にに向かい家に戻れると期待していましたが、体調が突然悪化して4月15日に息を引き取りました。
母は入院する直前にも貴方のことを考えており、母が病気になった折、貴方から頂いた一月のお手紙に返信しようと思っていました。
ここに、貴方が母の友人であり、何時も貴方や家族のニュースで母を明るくして頂いたことを感謝します。
Your Sincerely
Peter

アメリカで暮らして学んだ事

2009-02-21 09:50:54 | Weblog
が日本を発つとき 「アメリカは怖い国と聞いているので気をつけてね」 の言葉を背に受けて渡米しましたが、確かに滞在中は最後まで緊張感は取れませんでした。

真昼間、の目の前で猛スピードで自動車で逃げる犯人をパトカーが追いかけている場面を見るとドキドキしました。
私もを走行中、突然パトカーが後ろに張り付いてきて 「前の車、右の道路端に寄りなさい」 マイクで指示されビクビクしてを停めると自動車の税金を払っていないからと交通違反切符を渡されたのです。
前年度自動車の税金を払った時にその月のシールを渡され、シールを自動車のナンバープレイとにつけるのですが、毎年シールの色が変わるので未払いがわかるのでした。
忘れていた、知らなかった では通るものではありません。全て自己責任なのです。
昼間でも危険とおもわれている地域に行きトラブルが発生した場合でも出かけた人が悪いと評価されました。
そのために英語が出来ず一人で家の中に閉じこもり孤独感からストレスをためる人もいたようです。

も当初は英語が全く話せず、惨めであったし、恐怖心さえ感じました。でも私には恐怖心は持続しませんでした。慣れることが当初の気持ちを和らげてくれました。

持ち前の好奇心と少しある度胸で一歩前進したのです
シニアセンターに行ったときは、英会話が出来なくても手芸のニードルポイントの作品を作ることが出来たし、テーブルテニスのスポーツにも参加することが出来ました。
あと私が出来ることはニコニコと笑顔を振りまくことでした。また、親切な人が私の周りにいて大変恵まれていたと思っています

ボランティアの経験もして、いつも同じ人と接していれば、片言の英語で会話も出来るようになり楽しく過ごすことが出来ました。
自分で言うのもあつかましいのですが かんと度胸と愛嬌 で乗り越えてきたと思っています
ギブアンドテイク という言葉がありますが常識として皆さんは考えられているようでした。
これは物質的なことだけでなく 奉仕と感謝 の意味が含まれていると思った次第です。

アメリカの医療について(3)

2009-02-20 04:51:59 | Weblog
病院に着くと外科医の若いドクターから破傷風の予防注射をしているかと聞かれ、娘に通訳の手助けをしてもらいました。
注射をしてからドクターは私の膝頭に出来た三日月型の傷口を15針も縫いました
。膝頭のお皿(骨)は問題なく、複雑に傷ついた傷口は半分は綺麗につき後の半分は膿んで直るまで日数がかかりました。
直りの悪かった傷口は今でも痕が残っています。

もそけいヘルニアの手術をしました。
米国では入院費用が高くヘルニアは簡単な手術の部類に入るらしく日帰りの手術です。
家を朝6時にでて病院に行くと直ぐに病室に入り看護士が準備したストレンチャーに乗せられ手術室に入っていきました。
手術室の前には患者の家族が集まっていました。
何人かの外科医が同時に執刀するようでした。
手術が終わると看護士は患者をストレンチャーに乗せ点滴を下げながら出てきました。
手術室から出てくるのは1台だけでなくあとから後からストレンチャーが出てくるのには驚きました。
又出てきた患者の足首には名札が時計のバンドのようにはめられていて、さすがアメリカは多国籍の人が多いので、人物と名前を間違えないようにわかり易くしてあるようでした。看護士は尿が出たら帰っていいと言って出て行きました。
病室で2時間ほど休んでいる間にジュースなどを飲んで入るうちに尿が出たので私運転して家に3時ごろ帰宅しました。

知人も仕事を終えて、日帰りの手術と聞いてもまだいると思ってお見舞いに行くと、もう帰ったと聞いて吃驚していました。
家に帰りベットでの寝起きはきついので居間にあるソファーを使い、消化の良い食事にして過ごしました。
3日ほどしたら、夫は多少の痛みがあったようでしたが、もう勤めに行き暫くの間半日勤務を続けました。

アメリカの医療について(2)

2009-02-19 04:58:57 | Weblog
お薬は医療分業制です。(当時は日本では分業制ではありませんでした)
医者の書いた処方箋をもって薬局にもって行き購入する仕組みになっていました。
夜中に急に病気になった場合、ホームドクターのオフィイスに電話するとドクターエックスチェンジが出るので名前、容態、電話番号を告げるとホームドクターに繋げるシステムになっています。
暫く経つとドクターから電話が掛かってきて適当な指示を与えられます。
特に緊急な場合は 911 にダイヤルして救急車を手配します。ホームドクターの病院が近い時は、その病院に連れて行くように指示をします。
一刻をを争う時は最寄の病院に運びこまれます。 911 は緊急の場合の連絡番号ですので覚えておきましょう。

私はデェズニーランドで転び大怪我をしたことがありました。
丁度上の娘がアメリカに遊びに来て一緒に行った時でした。
動物が歌を歌っているショーを観るために劇場に入り、薄暗い劇場内に目が慣れていないのに席に座ろうとして席の横の金具に膝がぶつかり転んでしまいました。
その時はそれほど痛みえを感じなかったのですが、ショーを見終わって膝を見たら膝から血があふれていて吃驚して出入り口の近くにあるデェズニーランドの事務所に駆けこみました。
事務所の人は直ぐにを車椅子に座らせ、離れている事故現場からひどい血を流しながら事務所まで来たことにびっくりしていました。
救急箱を提げて可愛いお年寄りの女の人がきて、私の膝の応急処置をして、ホームドクターの名前を確認してドクターの診療所の近くの病院へ救急車で搬送するように手配してくれました。
夫には駐車場にある私の自動車を取りに来てもらいました。

アメリカの医療について

2009-02-18 16:44:38 | Weblog
アメリカに来ている駐在員の一番の心配ごとは病気になった時で、医療についての予備知識が乏しい事です。
駐在員の家族には小さい子どもさんのいる人が多いため、米国の医療事情についての説明がありました。

「日本とアメリカの病院のシステムは違いがあります。
始めての方は戸惑いされると思いますので簡単に説明します。
米国ではホームドクター制が基本となっています。ホームドクターは大きな病院や診療所と提携を持っています。
ホームドクターはオフィイスで診たてを中心に診察して、必要に応じて血液や尿のサンプルをとって生理検査を行います。
生理検査で採られたサンプルは病理学専門ののラボに分析のため送られます。
レントゲンをとる必要のある場合は放射線専門医の経営するオフィイスにアポイントメントして、そこへ行くよう指示されます。
そして病理学ラボの分析の結果はホームドクターにフィルドバックされます。

一般的にドクターの診察を受けたい時は直接病院に行くことが少なく、先ずホームドクターのオフィイスに予約をすることから始まります。
もし入院、または手術の必要ありと診断されたら場合、ホームドクターの関係している病院に入院、または手術をする手続きがとられます。
出産などの時も同様な要領で行われます。

ヤオハン(スーパーマーケット)

2009-02-16 04:32:30 | Weblog
住んでいるアパートからで20分ほどのところに、日本から進出してきたスーパーマーケット ヤオハン が開店しました
(現在は名前はミツワと変わっています)日本でも聞いたことがなく、調べてみると海外進出をして成功しているスーパーマーケットでしたが、私たちが日本に帰ってから倒産して別会社になりました。
建物は蒼い屋根瓦です。建物の内部は半分はスーパーマーケットで日本の食料品等なんでも揃っていました。
後のスペースは個別にお店があり、電気屋、本屋、化粧品店、陶器店、貸しビデヲ店、美容院などが並び、奥のスペースには寿司、うどん、蕎麦、中華、パン屋などありそれぞれのお店で注文してセルフサービスで食べるためにテーブルが沢山ならんでいました。
ここに来ると全く日本と変わりなく、値段はとても安いので良く利用しました。

貸しビデオ店は日本ので放映している、連続ドラマ、徹子の部屋、バラエティー番組などあり、いつも借りて見ていました。
本屋では毎日の新聞が買えました。

ヤオハンの出入り口のコーナーでは日系人や駐在している日本人やアメリカで住んでいる日本人のために日本語で書かれた無料の情報誌が置いてあり、現地の生活情報を得るのに大変役に立ちました。

リトル東京 (4)

2009-02-15 10:02:21 | Weblog
二世の時代になった日系人は良く働き社会奉仕にも参加し、7つ以上の重要な合戦で18000以上の勲章をを受ける武勇伝を暦史に残した。
彼らの戦功が米国政府や一般人に、日系の忠誠心とデモククラシーに対する憧れを持っていることを信じさせた。

1946年羅府新報(新聞)が再刊された。

1910年頃から庭園業に従事する人が一世には多かった。農家出身の日系人にはもってこいの仕事で、大方は白人のスクールボーイとして雇われ庭の手入れを頼まれているうちに、それらのほうが収入が多い事がわかり専念するようになった。
元の百姓や大学出の二世までも庭園業へと転じた人も多かった。1955年南加庭園業連合を作る。

1981年リトル東京再開発が始まる。
地上16階300戸の高齢者アパートを建設、1978年日本村ショッピングセンターが完成し、48軒の店舗が開店した。
このセンターのシンボル的建造物となっているのが日本独特な 青瓦葺き屋根の火の見櫓 で リトル東京 の新しい名物として現地の人から注目されるようになった。

休日は夫と二人で出かけて、日本村のお店で、今川焼き、さつま揚げなど出来たばかりのものを買ったり
その他の日本の食品も1週間分買い物してオレンジカウンティーのアパートへ帰ったものです。
暫くしてオレンジ カウンティーにも日本のスーパーマーケットが出来たのでリトル東京に買い物に行く機会が少なくなりました。
しかしロスアンゼルスを訪れる日本からの観光客にとっては欠かせない観光コースの一つになっています。 

リトル東京 (3)

2009-02-14 05:33:05 | Weblog
1930年は二世の成人時代といえる。日系人の半分が米国生まれとなっていたが、投票年齢に達したものは4千人しかいなかった。
西部沿岸の日本人会は、まだ一世の支配下にあり、彼らは日本人としての権利を主張したが、二世は米国市民権を主張するという異なった道を歩んでいた。
一世は米国という自分達が容易になじめない国へ抵抗なくなじんでいく二世に誇りを感じると同時に、その反面矛盾した気持ちで彼らを見守っていた。
日本語しか話せない一世と、英語を主に話す二世の衝突点は、日本の攻撃的な外交方針についてであった。
日本軍のアジア大陸における戦勝のニュースは、一抹の誇りを感じることなく、寧ろ、中国を支援する米国に負担共鳴する二世の態度が一世にとっては、はなはだ理解に及ばぬところとなった。

米国時間、1941年12月7日(日曜日)日系アメリカ人にとって永遠に忘れることの出来ない日が到来した。
日本海軍が真珠湾攻撃をしたのであった。
不安に満ちたリトル東京は呆然とさせたが米国陸軍は速やかに行動した。
西部防衛司令部が編成されいち早く奥深い土地へ移転させることにした。
FBIが来て殆どの日本人の男性が逮捕された。多くに役所、社会評論家はや一般の大衆まで、露骨な排日攻撃に乗り出した。
南カリフォルニアのいたるところから集まった9万2000人の日系人の殆どが奥地の砂漠や沼地に設けられた鉄柵に囲まれた強制収容所へ送られた。
残ったリトル東京は廃墟に変わり果てた。

日系人が収容所から太平洋沿岸へ帰ることが出来たのは1945年の春であった。
住宅難、根強い反日感情のなどの憂いが残っているロスアンゼルス区域へ、2万5000人以上の日系人が舞い戻ってきた。
戦前に幅を利かせた農場、農産物市場や漁場に昔の面影はなく、戦後は70%が白人の下で働きサラーリーマンになっていた。

リトル東京 (2)

2009-02-13 05:24:48 | Weblog
1907年3万人以上の日本人が米国に新しく移住している。
1年間の日本から米国へ移住した人々の最も多い年であった。
1年後には明治政府が 紳士協定 を結び、その後労働者は米国に送る事を禁じ、免除されたのは専門職、技術者、または米国に既に入国している家族のみに限られたのであった。

1913年にカルフォルニア州議会へ 「外国人による土地所有者禁止と借款の制限」 が提案され制定された。
カルフォルニア州における排日運動が初めて立法化して、日米間の感情悪化の一要因としてその後長く影響を及ぼした。
ロスアンゼルス在住の日系人は7対1と男性が圧倒的に多く、その大半は永住する意志を持たなかったが、時が経つにつれ次第に南カルフォルニアに根を下ろしていく者が増えていった。

伴侶を得るために 写真結婚 があり、女性を乗せた船が着くサンフランシスコまで迎えに行った。色々なエピソードが語り伝えられたが、大方の結婚は上手くいったようだ。

排日感情は相変わらず続いた。 
アジア人は白人の頭脳を盗む などの見出しが紙面を賑わし、日本人に対する暴行は日常茶飯事であった。
住宅地も歓迎されなく 「馬鹿にされ通しでしたよ。
でもリトル東京にいれば、そんな辱めは受けなくてはすみました。」 と靴屋の経営者は語った。

1915年ロスアンゼルス領事館が設立
1914年から1924年の間、日系社会は強く鍛えられ、1925年から強靭な組織力によって発展していったのは3つの理由があった。
一つは依然日系人を囲む社会が強い排日感情があったこと。
二つ目は二世がだんだん増えてきたこと、三つ目の理由は農作業を営む日系人が比較的安定した経済に基礎を作っていたことであった。