「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「細川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-18 05:55:52 | 温故知新
「細川氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介
細川氏は、足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家。足利義康の曾孫義季が鎌倉中期に三河国額田郡細川郷を本領としたのが始まりと言う。義季の曾孫和氏・頼春・師氏兄弟とその従兄妹の顕氏・定禅・皇海兄弟は足利尊氏に属し近畿・四国などで軍功を積み一族で数カ国の守護になった。和氏の子清氏は将軍義詮の執事となったが失脚し、頼春の子頼之は管領幼少の将軍義満を助け、幕府権力の確立に努めた。嫡流の当主はは、頼之の弟で養子の頼元を以降代々右京大夫に任じられ、京兆家と称され、幕府管領及び摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を世襲した。庶流の内五氏はそれぞれ和泉頼春の孫頼長が和泉上守護家、基之が和泉下守護家として共同統治し、阿波・淡路・備中の守護を世襲した。その後、管領勝元は山名持豊(宗全)と対立し応仁・文明の乱を引き起こした。その子政元は将軍を廃立して幕府政治を左右したが、養子澄之を擁する家臣に殺された。以来一族・家臣の分裂抗争が続き、家臣の阿波三好氏の台頭を招き、永禄四年(1561)細川晴元が三好長慶に降り、京兆家は没落した。
江戸幕府の外様大名。本家は肥後熊本藩主。和泉上守護家の細川基常の甥で養子の藤孝(幽斎)より興る。藤孝は故実・歌道に通じ、足利義昭・織田信長に仕え、丹後田辺城主となった。その子忠興は信長・秀吉に・家康に仕えて軍功を重ねた。忠興の子忠利は熊本54万石を領し、子孫がこれを世襲した。

「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 

2019-09-18 05:54:32 | 温故知新
「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 
畠山氏には二系統ある。一つに、畠山氏(桓武平氏)平安末から鎌倉前期の豪族。桓武平氏、秩父重弘の子重能が武蔵国畠山荘(現、埼玉県深谷市)の荘司となったのが始まる。
 畠山氏(清和源氏)足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家、足利義兼の子義純はは畠山重忠の死後その妻(北条時政の女)結婚し、その子泰国が畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれる。①畠山国氏(?~1351)は奥州管領となる、その子国詮は戦国大名二本松氏の祖となる。②畠山直顕は日向守護となったが振るわず、その甥直宗は足利直義の近臣となるが高師直に殺された。
 ③畠山国清は直義方から将軍尊氏方に帰順、関東執事になってのちに没落し、その弟義深が赦されて越前守護となる。その子畠山基国は将軍義満に重用され、越中・能登・河内・紀伊守護を兼ね、応永5年(1398)管領に就任。その嫡子畠山満家以来管領家は河内・紀伊・能登守護家を立てた。しかしその後畠山義就と畠山政長が家督争い、応仁・文明の乱の一因となった。政長が細川政元に謀殺されてのち、一族・家臣の分裂抗争で勢力が衰え、高政は織田信長に属したが、弟で養子の昭高は家臣遊佐信教に殺された。能登守護家も上杉謙信に制圧された。昭高の子孫は江戸幕府の高家となり、能登畠山氏の子孫も幕臣になる。※「畠山氏は嫡流・傍流・庶流の流れは大きく分けて「七家」に区分することが出来る。「平姓畠山氏」「源姓畠山氏」「奥州畠山氏」「源姓畠山氏宗家」「畠山氏総州家」「畠山尾州家」「七尾畠山家」それぞれの流れと、出自を追ってみて、時代の趨勢の複雑さを知る次第であった・

「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 

2019-09-18 05:52:54 | 温故知新
「畠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介 
畠山氏には二系統ある。一つに、畠山氏(桓武平氏)平安末から鎌倉前期の豪族。桓武平氏、秩父重弘の子重能が武蔵国畠山荘(現、埼玉県深谷市)の荘司となったのが始まる。
 畠山氏(清和源氏)足利一門の守護大名。嫡流は室町幕府の管領家、足利義兼の子義純はは畠山重忠の死後その妻(北条時政の女)結婚し、その子泰国が畠山氏の家名を継いだ。一族は数流に分かれる。①畠山国氏(?~1351)は奥州管領となる、その子国詮は戦国大名二本松氏の祖となる。②畠山直顕は日向守護となったが振るわず、その甥直宗は足利直義の近臣となるが高師直に殺された。
 ③畠山国清は直義方から将軍尊氏方に帰順、関東執事になってのちに没落し、その弟義深が赦されて越前守護となる。その子畠山基国は将軍義満に重用され、越中・能登・河内・紀伊守護を兼ね、応永5年(1398)管領に就任。その嫡子畠山満家以来管領家は河内・紀伊・能登守護家を立てた。しかしその後畠山義就と畠山政長が家督争い、応仁・文明の乱の一因となった。政長が細川政元に謀殺されてのち、一族・家臣の分裂抗争で勢力が衰え、高政は織田信長に属したが、弟で養子の昭高は家臣遊佐信教に殺された。能登守護家も上杉謙信に制圧された。昭高の子孫は江戸幕府の高家となり、能登畠山氏の子孫も幕臣になる。※「畠山氏は嫡流・傍流・庶流の流れは大きく分けて「七家」に区分することが出来る。「平姓畠山氏」「源姓畠山氏」「奥州畠山氏」「源姓畠山氏宗家」「畠山氏総州家」「畠山尾州家」「七尾畠山家」それぞれの流れと、出自を追ってみて、時代の趨勢の複雑さを知る次第であった・

後白河・院政の攻防』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-18 05:49:46 | 温故知新

後白河・院政の攻防』アマゾン電子書籍紹介
平安時代の保元の乱から平治の乱の院政の攻防を描いております。
長き白河院の院政に孫の鳥羽天皇は抵抗、白河院の死去後、待賢門院と取り巻きを排除し、美福門院派を起用し、長子の崇徳天皇を強引に近衛天皇に譲位させた。
病弱な近衛天皇は早世し、次の天皇候補に二条天皇が定めらえていたが、幼少の為に、中継ぎで後白河天皇が即位した。譲位した崇徳院派がクーデターを起こし失敗し、後白河天皇は幼少の頃からの近臣者の信西が政務を執るが、強硬な政策に公家・公卿らの反発と不満が続出し、後白河法皇が起用し、代わって頭角を現した、信頼が信西反対派の不満を吸収し信頼派が、信西総師を転覆させるクーデターを決行し、信西は逃亡を図るが、失敗、首を撥ねられて晒し首になった。
信頼は、成功したかに見えたが、公家・貴族は信西の失脚で信頼の政権を望まず、白浜に赴いていた清盛が帰京して、形勢は一変し、信頼は六波羅で戦って敗北し処刑された。
しかし、そこには暗主 後白河法王の院政の策略があった。次に台頭する平氏の清盛と協調体制から対立関係に、院政停止、再開と繰り返し、驕る平氏の清盛の横暴と強権に後白河院は南都・北嶺の僧兵に悩まされながら、源氏の蜂起によって福原に遷都の途中に清盛包囲網に連続しての戦いの最中清盛は死去し、幼い安徳天皇を保護しながら頼朝との交渉中半の六十六歳で六条殿崩御した。