「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-22 06:13:04 | 温故知新
「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介
奥州藤原氏。平安後期から鎌倉初頭まで、陸奥国平泉(現岩手県平泉町)を拠点に北日本地域に支配した豪族。藤原北家の秀郷流と言われている。藤原経清の子藤原清衡を初代とする・後三年役の後。清衡は継父清原氏の遺領を継ぎ、白河院や摂関家と結んで本姓藤原に改姓し、12世紀初めの平泉に本拠を移し、陸奥国国司との協力の下、日本国に服属したエゾの統括者を意味する「俘囚之上頭」陸奥出羽押領使として奥羽・北海道方面を振るった。清衡の子2代藤原基衡、藤原氏2代父は藤原清衡、母は安部氏女と考えられ、宗任の女とも言われる説もある。陸奥出羽押領使大治3年(1128)父清衡の死後起こった異母兄弟の惟経都の内訌に勝利し、中央政府にも介入も阻止して父の遺領を継ぐ。鳥羽院や摂関家と結んで奥羽両国における勢力を拡大。本州北部・陸奥南部。出羽に対する支配を隔離した。奥州藤原氏の全盛期を3代に渡って藤原秀衡と共に築いた。秀衡との鎮守府将軍・陸奥守に任命され、名実ともに奥羽全域の支配者となった。4代藤原泰衡の文治5年(1189)奥州合戦で源頼朝に攻め落とされた。
 

「倭寇と三浦の乱」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-22 06:09:44 | 温故知新

「倭寇と三浦の乱」アマゾン電子書籍紹介
「倭寇は朝鮮半島・中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名で、語義「日本人の略奪」だが、用字例を見ると404年高句麗広開土王碑文(好太王碑)までさかのぼり、また豊臣秀吉の朝鮮出兵も日中戦争の日本軍も、全て倭寇の名で呼ばれている。歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主に14世紀から15世紀に朝鮮半島から中国大陸の北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇である。【14~15世紀の倭寇】朝鮮半島では13世紀初頭から倭人の略奪行為があったが、観応元(1350年)2月から11月に大規模な倭寇の船団による襲撃事件があり、これを「庚演の倭寇」として、その後固定観念としての倭寇が成立した。倭寇の行動範囲は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、やがて高麗の首都開京の付近や内陸部の奥地にも及び、規模も大きくなり、400~500の船団、1000~3000の歩卒、千数百の騎馬隊が出現した。構成員⑴日本人のみの場合⑵日本人と高麗人・朝鮮人との場合⑶高麗人。朝鮮人のみの場合が考えらえるが、李氏朝鮮王朝時代倭寇の内倭人の割合は10~20%に過ぎなかったと言っていることから⑵⑶の場合が多かったと思われる。日本人は対馬・壱岐・松浦地方の住民、高麗・朝鮮人は禾尺・才人などのや流亡農民を収める官庫と租粟を運搬する漕船や人民であった。捕られた人民を送還することによって反対給付をうけたり、倭寇軍に編入されたり、琉球まで転売されることもあった。高麗王朝は武力による防衛に努める一方、日本の要路に使者を送って倭寇の禁止を要請したが成果が上がらないうちに王朝は倒壊した。代わって李氏朝鮮王朝葉前王朝の政策を受け継ぎながら軍備を充実し、巧妙な懐柔策を取って倭寇の鎮静に導いた。倭寇は、朝鮮王朝に投降して官職・衣食などを与えらえ向化倭人、日本の大名や豪族の使者の名で行動した使送倭人、貿易業者として行動した販売倭人・興利倭人などに偏執分解した。明も建国当寺当初から倭寇に苦しみ、太祖は南朝征制西将軍懐良親王と交渉して倭寇を禁止させようとしたが、成果が上がらなかった。



「義民の群像」アマゾン電子書籍紹介

2019-09-22 06:03:02 | 温故知新
「義民の群像」アマゾン電子書籍紹介
1、「義民とは義を実行した民を意味するが、一般的に百姓一揆の指導者の内、後世英雄物語が作られ、地蔵尊や神社に、あるいは石碑を立てて検証されている人々を指す。義人ともいう。18世紀後半に百姓一揆の増大を受けて全国的に検証活動が行われた。検証活動の目的は過去の一揆で獲得した先例を確認して行くことにあるが、同時にそれを獲得したのが村役人である義民の行為であることを強調し、打毀しに象徴される村落内の対立激化による秩序の解体を、村役人を中心に立て直す役割を果たした。嘉永4年(1851)佐倉惣五郎の物語である「東山桜壮子」が江戸で上演され大ヒットし、惣五郎は義民と呼ばれた。この物語は各地に急速に流布され、各地の一揆指導者も義民と呼ばれるようになり、また物語は惣五郎に同化した。また幕末から明治初年の一揆は、惣五郎ら義民の影響を受けたものが少なくない。近代に入っても義民顕彰活動は展開され、特に自由民権運動には各地で活発に行われた。