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「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『重源』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-19 05:53:18 | 温故知新
『重源』アマゾン電子書籍紹介
重源と言えば東大寺再建で知られている。平安末期の戦乱の中で、醍醐寺に出家し、流浪僧から、宋に渡航する事三度、念仏聖から、東大寺再建まで八六歳の生涯の物語である。
一、「上醍醐寺に出家」
重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和 国は平群県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平群で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。西国観音三三所有名な、上醍醐で修業を積み、下醍醐で教学を収めてた。.
二、「修験者への道
遊学に出た重源は、修験者の道を歩む、まず、大峰山に向かい、洞川から大峰山に表行場・裏行場の荒行を修行し、峰々を駆け巡り、ついで吉野山の金峯山寺の蔵王 権現で感得し、吉野から大峰奧崖は、、吉野から熊野まで七五靡くまで、形成されている。熊野三山の修行終えて、伊勢神宮参拝から御岳山で修験道を納めて京都に戻る。
三、「法然に浄土教を学ぶ」
京都に戻った重源は、時の流行の阿弥陀信仰に法然に浄土教を学び、阿弥陀聖として高野山など、流浪僧となって、浄土教を布教し、念仏聖となる。
四、「唐へ求法への道」
「中国三度入宋」入宋を試みて交易船で中国に阿育王寺と国清寺に修行し教学を納め帰国、その際い、阿育王寺より、舎利殿再建の資材の勧進を依頼された。二回目は重源が目指す五台山に登る。五台山で修行、教学を収めて帰国した。三度目は阿育王寺に依頼された資材の手配で入宋し舎利殿完成確認し帰国しあt。
五、「東大寺焼失」
平氏と南都六大寺が対立、南都僧兵を持って七〇〇〇人で対抗し、平重盛は4万の兵を持って奈良を攻撃し、奈良は悉く焼失し、東大寺を始め興福寺を焼失し、灰塵と化した奈良東大寺の再建に朝廷と公家・貴族の嘆きと再建の熱望した。
六、「東大寺再建と勧進」
東大寺再建に白羽の矢が重源に、六一歳の高齢の重源、一大決心、東大寺再建総勧進と言う重責に、西に東に奔走し、工事に勧進に何千と言う人々を束ね、結束させ見事大仏を完成さたが、大仏殿完成前に重源死去した。後は行勇と西行に任せられて完成した。 
七、「浄土寺建立」
浄土寺の建立と阿弥陀三尊像という、重源生存中の最大傑作の素晴らしさとその謎を探り、その偉大なる重源の企画力と行動力を表し、物語にした。

『古代史群像標榜』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-19 05:51:15 | 温故知新
『古代史群像標榜』アマゾン電子書籍紹介
日本歴史上の神話や伝説の世界から、飛鳥・奈良・平安までの時代の変貌に古代史は築かれ、わが国の国家・国体の形成の根幹と成す時代であった。
また様々な権力構造の編成に勢力の興亡が繰り広げられた。古代史に起きた”変・役・乱・事件“などの事変に刻んだ栄枯盛衰と時代の趨勢に人々の生き様と、歴史を刻み紡ぐ郡像を高く掲げた功罪と影響の標榜を探り求めようとするもの

『真田氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介

2019-09-19 05:48:16 | 温故知新
『真田氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介
戦国時代の信濃国小県郡から上野国沼田に及ぶ国境地帯の領主。真田幸綱(幸隆)・一徳斉、(1513~1574)が武田信玄の家臣として台頭。嫡男真田信綱(1537~1575)が長篠の戦で戦死した後に、三男真田昌幸が家督を継承した。武田滅亡後は、小田原北条、徳川、上杉の3者鼎立のなか外交戦略で沼田城を死守するとともに、天正11年(1583)海士淵城(上田城)に進出し独自の検地や裁判を実施した。翌年、豊臣秀吉、上杉景勝、真田の同盟により徳川家康と戦闘状況に入り、一時沼田を北条氏と分割したが、1590年の小田原攻めの結果、沼田、上田の領有を認められ豊臣大名となった。一方繁信は大坂の陣では豊臣方に方に忠臣を誓い、徳川家康を討ち取る寸前まで丁々発しの大活躍、智恵以て策を講じて、徳川方を翻弄させ、恐れさせた。命知らずの武士の中の武士として、後世に語り継がれる所以である。一族の存続には親子二分にしてでも、家名を残す武士の宿命と刹無さを垣間見ることが出来る。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは嫡男真田信之が東軍に属し、昌幸・真田信繁(幸村)は西軍として上京する徳川秀忠を釘付けにした。両人は助命され高野山に蟄居したが、信之は家康の養女を妻にして、元和8年(1622)松代城に移封。嫡男真田信吉は(1593~1634)は沼田城主となったが5代目信直は沼田城を改易。真田藩は明治維新まで待つ支藩として存続した。