「古代の群像・藤原仲麻呂」マゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍」
藤原仲麻呂(706年764年)奈良時代の官人。のちに藤原恵美義勝という名前に改名。武智麻呂の第二子。母は安倍貞吉もしくは真虎の女貞媛。叔母光明皇后の信任を得て政権を掌握した。民部卿、参議、左京大夫、近江守、式部卿などを歴任し、749年(天平勝宝元)孝謙天皇が即位すると大納言となり中将大将を兼ね、光明皇太后のために新設された紫微中台の長官をも兼任する。756年聖武大上天皇は道祖王立太子を遺詔して死去するが、757年(天平法宇元)天皇、皇太后と偽って道祖王を廃し、自分が後見していた大炊王を皇太子に仕立て上げた。同年紫微内相となって内外諸兵事をつかさどり、橘奈良麻呂らの反乱計画(橘奈良麻呂の乱)を未然に鎮圧して反対勢力を一掃し、兄の右大臣豊成を左遷して政権を掌握した。758年大炊王即位(淳仁天皇)に伴い、大保となり藤原恵美義勝の名を賜わり、鋳銭、挙稲、恵美家印使用などの特権を得た。760年に大師(太政大臣になる)同年光明皇太后が死去すると、権勢は揺らぎ始める。道鏡を寵愛する「孝謙大上天皇と仲麻呂の傀儡である淳仁天皇の関係が険悪化し、762年には太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握の宣言に至り、その対立は決定的になった。764年ついに武力衝突し、緒戦に敗れて逃走し仲麻呂は近江の国戦闘の末斬殺された。