「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「高僧名僧伝・行基」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子書籍

2020-05-25 05:41:05 | 投稿済C

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行基(668年~749年)奈良時代の僧。河内国大鳥郡蜂田首虎身の長女古爾比売。15歳で出家し、24歳で高宮寺徳光を師主として受戒した。高宮寺は大和国葛城上郡高宮郷市大字西左味にあった寺で、金剛山の中腹にあたり、修行の根拠地になる山寺である。徳光は山林修行も習ったと推定される。一方、経典学習のため法興寺、薬師寺所属しにも、摂論系の瑜伽・唯識学を学習した。704年(慶雲元)山林を出て故郷に戻り、生家を改め家原寺とした。長年にわたる山林暮らしをやめて故郷に戻ったのは、三階教に出会ったからと考えらえる。三階教は隋の信行により開かれた民衆宗教で、山林修行を否定し、街頭宗教で山林信仰を否定し、街頭集落における民衆の宗教的共助活動を重視し、無尽蔵施と称する布施行により我が身と祖先の罪業が消滅すると説いた。その教籍は道昭が請来し法興寺禅院に安置した。行基はこれを読み、716年(霊亀2)以降、街頭に出て、民衆不況に乗り出した。出家の弟子には布施行を勧め、知識を結成して、布施屋の建設(9か所)架橋(6か所)、道路修理(1か所)、院と称する民衆的寺庵の建設(40か所)などを進めた。717年(養老元)政府から名前をあげてその行動を叱責され、722年にも抑圧を受けたが、翌年三世一身法が出ると、溜池の構築(15か所)灌漑溝の整備(6か所)・開田にも乗り出し、その行動が社会的に有益であることを立証した。730年(天平2)、731年には15もの院を建設した。これに伴い政府の彼に対する姿勢も変化し、731年在家の弟子の一部に出家が許されるという得点に浴したが、これは藤原不比等と四子と光明皇后の影響が考えられる。740年恭仁京の造営が始まると、大和・山城の国境の泉川(木津川)に泉大橋と泉橋院を建て為政者の注目を集めた。743年、聖武天皇による大仏建立事業が始まるとこれに協力し、745年大僧正に任じられた。749年、不況の拠点であった平城京の喜光寺で没した。