「高僧名僧伝・法然」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
法然(1133年~1212年)浄土宗開祖。諱は源空、諡号は円光大師。父は美作国久米郡押領使の漆間時国、母は秦氏。9歳の時、夜討ちで父を亡くし、同国菩提寺の観覚のもとに預けられた。15歳で比叡山に登って持法房源光、ついで功徳院皇円に師事して天台三大部を学ぶ。1150年(久安6)18歳で遁世して、西塔黒谷別所の慈眼房叡空の室に入り、法然房源空と称した。叡空は融通念仏の良忍の弟子で、円頓菩薩戒を伝持した人物であり、法然は浄土教と円頓の両者を学び受けた。法然はこののち生涯持戒を貫き、授戒戎師としても活躍している。顕密諸宗を学んで南都に遊学したのち、1175年(安元元)43歳で善導の「観無量寿経流」により改心した。凡夫も称名念仏で往生できると確信し、浄土宗を開いて、東山大谷の吉水に移った。1186年(文治2)延暦寺の顕真の発議で大原の勝林寺で浄土教を論じ、この大原問答で一躍注目を集めるようになり、1189年からは九条兼実邸に出入りするようになる。1190年(建久元)には重源の要請で、東大寺で浄土三部経を講説し、称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である。との選択本願念仏説を初めて披露した。1198年には三昧初得や夢中での善導対面などの神秘的体験によって思想的確信を深め、九条兼実の要請もあって「選択本願念仏集」を撰述本願念仏説を体系化するとともに、これを唯一の真の浄土教と主張した。しかし当時、最も低劣な行いと考えらえていた称名念仏を唯一絶対的価値を持つ往生行であると位置づけ、それ以外の一切の善行を往生行であるとしては無価値であるとした法然の主張は、当時の価値体系を根底から覆すものである。また「年貢を納めれば極楽往生できる」「領主に背けば地獄に堕ちる」という領主の民衆支配の論理を無意味化するものでもあった。そのために法然児は、治承・寿永の内乱後の社会的激流の渦の中に巻き込まれていくことになる。旧仏教は、諸行往生を否定する専修念仏を偏執の教えと指弾し、善行を妨げ念仏義を誤る悪魔の使いと非難した。1204年(元久元)には延暦寺が、翌年には興福寺が顕密八宗を代表して専修念仏禁止を上奏した。法然は七箇条制誡や送山門起請文を記して、弟子に旧仏教批判の自粛を求めて弾圧の回避を図ろうとした。朝廷は当初念仏と専修念仏の違いを理解できなかったこともあって、法然自ら自粛を求めるだけで処罰を行わなかった。1207年(建永2)に後鳥羽院の女房の無断出家が発覚して、院が激怒した。2月に専修念仏禁止令が発布され、弟子4名が死刑、法然も土佐に流罪となった。法然は同年12月に最勝四天王院供養の恩赦でで赦免され、摂津勝尾寺に寄萬。1211年(建暦元)11月帰洛を許され、翌年1月25日、大谷の住坊で「一枚起請文」を残して没した。