「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「猿楽の謎」アマゾン・グーグル・角川・楽天。電子書籍紹介」。

2020-06-30 06:37:57 | 投稿済C

「猿楽の謎」アマゾン電子書籍紹介」。
猿楽は奈良時代には中国より伝来した散楽から発展した芸能。曲芸や奇術を主体とする散楽は、平安時代になると「猿楽」と表記され「さるがく」「さるごう」と呼ばれるようになった。これは芸能が滑稽階位なものへと変化したことと関係していると考えられる。藤原明衡著「新猿楽記」は当時の猿で楽の様子を詳しく伝えており、それによると猿楽は秀句、物真似、寸劇などの要素を持っていた。鎌倉時代になると、猿楽は翁猿楽を中心芸とするようになる。これは翁、三番叟、千載、延命冠者、父尉が登場して舞う祝祷性の強い芸で、寺院芸能の呪師を継承は・発展させたと考えられていると、思われる。呪師は修二会で法呪師と呼ばれる僧が行った鎮魔・徐魔的所作が芸能化したものである。翁猿楽は寺社と結びつきを強め、翁猿楽を演じるための座が各地に誕生した。これらの座は本拠地によって、大和猿楽、近江猿楽、伊勢猿楽、宇治猿楽、越前猿楽、丹波猿楽などと呼ばれた。平安時代以来の娯楽芸としての猿楽も翁猿楽に従属する形で演じられていたが、鎌倉後期に劇形態の芸である翁猿楽が生み出され、その成長とともに翁猿楽の立場が逆転し、座に置いても猿楽を演じる役者の地位が向上した。田楽も鎌倉後期から田楽能を演じており、南北朝時代には京都ではしばしば勧進田楽が催されて将軍足利尊氏も見物するなど猿楽より優位にあった。田楽と肩を並べるまでに猿楽の地位を高めたのが大和猿楽結崎座の観阿弥である。彼は優れた演技力と音楽面の改革などで名声を上げ、将軍足利義満の公演を受けるようになった。その子世阿弥も物真似主体から歌舞伎主体へと能を転換を図って優れた作品を生み出したので、猿楽という語は江戸末期まで能・狂言やその役者、催しを表す語として用いられたが、明治初期からは能楽と呼ぶのが一般的になった。