「高僧名僧伝・天海」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
天海(?~1643年)江戸初期の天台僧。慈眼大師。東叡山寛永寺の開山。3代将軍徳川家光の熱狂的帰依を受けて、家康の神格化に大きな役割を果たした。陸奥国高田出身で、比叡山天台を学んだ後、園城寺や奈良で経論を学んだといわれる。さらに足利学校で儒学を学んだといわれる。1591年(天正19)び江戸崎不動院の住持となり、1599年(慶長4)武蔵国川越の仙波喜多院にうつる。この頃から家康の知遇を受けて、1607年、山門執行探題にとなり比叡山を掌握。1616年(元和2)家康の死に際しその遺言を受けたとして、家康を東照権現とし山王一実神道によりまつるべくことを主張し、大明神として吉田神道で祀るべきとする以心崇伝や梵俊と対立。家康の日光改装以降は輪王寺を建てて日光を管轄し、家康の祭祀を主宰する位置についた。さらに1625年(寛永2)には寛永寺を建てた。その後、寛永寺は1647年(正保4)寛永寺を親王門跡寺とし、天台宗を管轄するに至る。1637年(寛永14)木活字版の天界版大蔵経を刊行。1639年、家光の命令で「東照宮縁起」を起草(上皇・天皇・諸公家が執筆)1643年、寛永寺で没、108歳と言われているが信頼性は少ない。
「歴史の回想・滝沢馬琴」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」
曲亭馬琴(滝沢馬琴)(きょくていばきん)(1767年~1848年)江戸時代の読本・合巻作者。本姓滝沢氏。名は興邦。俗称は左七郎、左吉、清右衛門。号は著作堂主人、蓑笠魚隠、飯台陳人、玄同など。父滝沢興義は松平鍋五郎源信成の用人、その五男として生まれ江戸深川の松平邸内で生まれる。9歳の時父が死に、長兄が他家に仕え、次兄も他家に仕え去り、場君が滝沢家を継いで主君の孫八十五郎に仕えた。14歳の時主家を出走し、儒学・医学に身が入らぬまま俳諧、戯策ににふける。1791年(寛政3)京伝門人大栄山人の名で処女作の黄表紙「尽用而二分狂言」を刊行。翌年地本問屋蔦屋重三郎に認められ幾つかの黄表紙出版。この年会田氏海老屋市郎兵衛の娘百を娶り清右衛門を名乗るが、やがて商売をやめ、滝沢姓に戻る。1804年(文化元)に本格的読本の初作「月氷奇縁」出版1807年、「南総里見八犬伝」の刊行が始まり、競合関係にあったかつての師山東京伝を凌駕して読本の第一人者の地位を不動のものにした。寛政の改革によって次々と戯作を断念していった同時代の作者に対して、馬琴は勧善微悪と理想主義を貫くことによって身をかわして読本分野を大成した。子息鎮五郎興継は医術を修めて宗伯と名乗り妻路との間に一男二女を設けた。滝沢家復興の期待を一身に負った宗伯は1835年(天保6)38歳で死去。1841年には妻百没。以降寡婦路は盲目となった馬琴を助けて「八犬伝」を代筆して完成へ導いた。滝沢家の記録は1822年(文政5)~1842年(天保6)の「吾賀仏之記」1835年(天保13)の「後の為の記」など多数の戯作を残した。