「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「高僧名僧伝・忍性」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電」「

2020-06-09 16:29:22 | 投稿済C

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「高僧名僧伝・忍性」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」「
忍性(1217年~1303年)鎌倉時代の律宗の僧。鎌倉の極楽寺開山長老。字は良観房。大和国の人。幼少より母の影響で文殊菩薩信仰に触れ、母の死を契機として出家を決意した。1239年(延応元)23歳で西大寺叡尊と出会い、戒を受けてその弟子になった。彼は母の解脱のため、大和国の非人宿に文殊菩薩の図像安置することに念願としており、忍性の文殊信仰が取り入られ、非人を文殊菩薩の化身とみなす西大寺流律宗による非人救済運動だ展開されていくこととなった。忍性も癩病(ハンセン病)のために足腰の立たない奈良坂の非人を、毎日奈良の市まで背負って送り迎えをし、乞食で生計が成り立つようになど、非人救済に奔走した。1252年(慶長4)36歳で律宗の東国布教を目指して関東に下向し、常陸三村寺に住した。1262年(弘長2)師叡尊の鎌倉下向に際しての活動で忍性も鎌倉幕府の北条氏の信頼を得、多宝寺を経て、1267年(文永4)生涯の活動の拠点となる極楽寺に住した。以降、鎌倉に有って非人救済・左道・殺生禁断などの慈善事業に努めた。彼が鎌倉に建立した療病施設・桑ケ谷療病では20年間に癒ゆる者4万6千八〇〇人、死する者一万四五〇人で五分の四が治癒したといわれている。彼の慈善事業は鎌倉和賀江島の律の修築のために升米を取り、桑ヶ谷療病所の費用として土佐国大忍荘を北条時宗から寄進されるなど、鎌倉幕府の交通政策や慈善事業政策を代行する体制補完的な役割も果たした。その勧進活動における事業家的能力を買われて、東大寺大勧進、四天王寺別当、摂津多田院別当などを歴任し、多くの寺社の勧進・復興を成し遂げた。彼の死後、その遺徳をしのんで描かれた追慕像とされる絹本着色像が残されている。



「高僧名僧伝・一遍」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-08 08:59:00 | 投稿済C

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一遍(1239年~1289年)鎌倉中期の念仏聖。時宗の宗祖。伊予国の豪族河野通信の孫、通広の子、幼名は松寿丸、10歳で出家して髄録と名乗り、1251年(建長3)大宰府に赴き浄土宗西山派の聖達や華台に師事して名を智真と改めた。1263年(弘長3)父の死によって帰国して還俗したが、数年後に再出発して聖戒(一遍の弟あるいは甥)とともに聖達を訪れた。1271年(文永8)信濃の善光寺に参籠して「二河白道図」写し、それを伊予国窪寺の草庵に持ち帰り念仏を専心した。やがて十劫の昔に阿弥陀仏が悟りを開いたことと、今の衆生が一念で往生できることが
同時一体であることを感得し十一不二頌を作成。1273年に伊予の岩屋寺に参籠し、翌年、超一・超二・念仏房の三人と遊行の旅に出る。四天王寺・高野山に参籠して、念仏札を配って歩いたが、札の受け取りを拒否されて困惑する。しかし熊野本宮で、衆生の往生はすでに名号によって定まっているので信不信、浄不浄にかかわらず札を配れ、との熊野権現の啓示を受けて信仰を確立。名を一遍と改めて超一らと別れて、「南無阿弥陀仏」【決定往生六十万人】ときされた札を配り賦算ながら、九州から奥州までほぼ全国を遊行して回った。1279年(弘安2)には信濃国小田切の武士の館、踊念仏を始めている。一遍は寺や道場を建立することなく遊行を続け始めた。一遍に付き添う時衆のための、1287年に生活必需品を12種に限定。宿所ではそれらを修める十二光箱を僧尼の間に置いて男女問題の発生を抑止しようとした。1280年(正応2)所持していた聖教を焼いて播磨国兵庫の観音堂で没した。伊勢や熊野などの神社信仰と親和的な点思想的の特徴がある。




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「歴史の回想・柳生十兵衛」アマゾン・グーグル・楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電」

2020-06-07 13:32:52 | 投稿済C

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柳生十兵衛(柳生三厳)(やぎゅうみちよし)1607年~1650年)江戸初期の幕臣、剣術者。柳生宗矩の長男。幼名七郎、通称十兵衛。1616年(元和2)徳川家康に拝謁。1619年から家光に仕え籠があつかったが、1626年(寛永3)には勘気を受けて、柳生に帰って柳生流武芸の研鑽に励んだ。1638年までには許され、1646年(正保3)父の遺領の内8300石を継いだが、44歳で急死した。若いころからかなりの暴れ者であったというが、剣術には早くから才を示し理論上の研究も深めて「月之抄」などの述作がある。隠密として諸国を回ったとか、集眼の剣豪であったなど、伝説は多いが信憑性は薄い。


「高僧名僧伝・道元」アマゾン・グーグル。楽天・電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電

2020-06-05 06:02:40 | 投稿済C


「高僧名僧伝・道元」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電
「道元(1200年~1253年)鎌倉時代の僧。別名希名玄。日本曹洞宗の始祖。永平寺開山。父は内大臣久我通親。母は藤原基房の女。京都の木幡に生まれる。3歳で父を失い、8歳で母の死に目に会う。13歳の時、基房が養子を望んだが出家を決意して比叡山の麓の母方の良観の室に投じ、横川の首楞厳院の般若谷先光房で出家生活に入った。慾1213年(建保元)天台座主光円について得度、授戒したが、天台教学に疑問を持ち、園城寺の公胤を尋ねて入宋求法を進めらえて1217年の秋、栄西開創の建仁寺に入り、明全に師事した。承久の乱(1221年)を契機に明全は東大寺に受具の戒牒を制作し、道元は明全から師資証契の印可を受けて、入宋準備を始め、1223年(貞応2)明全とともに入宋した。明州慶元府に着き、船中で阿育王山の典座にあって禅に開眼。太白山天童寺景徳禅寺に赴き、臨済禅の無際了派の下で学び只管打坐を会得した。仏祖の命脈伝授を証明する嗣書の閲覧を許され、正師を求めて怪山万寿寺、天台山万年山寺などを巡錫したが得られず、天童山如浄を正師として師事した。如浄の下で厳しい修行の末、1225年に悟りを開いた。1227年(安貞元)秋、如浄の印可を得て帰国。建仁寺に身を寄せ「普勧坐禅儀」撰述して坐禅の本義宣言した。1229年(寛喜元)道元を訪れた達磨宗の孤雲懐奘に入門を約したが、延暦寺の圧迫、如浄の訃報などにより、1231年の春、山城深草の安養院に閑居し「正法眼蔵」「弁道話」を著し、宗旨の綱領を説示した。1233年(天福元)の春、正覚禅尼、弘誓院らの外護者の招請もあって、深草の地に観音導利興聖宝林寺を開創し、1236年(嘉禎2)僧堂を開き衆を集めて説法した。多くの信徒を集め説法や、六波羅蜜寺などで示衆、朝廷に「護国正法義」を呈するなどして積極的な教化活動を行った。そのため再び延暦寺に迫害され、洛外追放になり興聖寺は破却された。道元は京都での教化活動を断念し、如浄の遺訓により、京都を離れ在俗信徒の武士波多野義重越前の白山平泉寺を教化活動を行い、大仏寺が建立された。後に同寺を永平寺に改めて弟子の育成にあたった。所が北条氏の余勢によって鎌倉に下向、翌年病に帰洛し京都西洞院の弟子の邸で没した。






「高僧名僧伝・以心崇伝」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・角川・角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」

2020-06-04 06:07:33 | 投稿済C

「高僧名僧伝・以心崇伝」アマゾン電子書籍紹介。角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」
以心崇伝(1569年~1633年)江戸初期の臨済宗の僧侶。円照本光国師。京都南禅寺の塔頭金地院に住したので金地院崇伝ともいう。室町幕府四職家の一色氏の出身。室町幕府滅亡後に南禅寺の玄圃霊三に師事、1605年(慶長10)に建長寺住持、ついに同年の内南禅寺住持となる。鹿苑僧録の西笑承兌の推挙で1608年駿府で徳川家康に面謁し、以降外交文書の起草に従事。1610年以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取り締まりになど宗教関係の行政にあたった。また家康の指示で内外の古典を収集・調査し、伴天連追放令や禁中並公家諸法度、武家諸法度をきそうした。家康の死後は江戸に移り、1619年(元和5)禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任命された。1626年(寛永3)国師号を受ける。翌年紫衣事件では沢庵宗信彭らの厳罰を幕府に進言した。幕政における崇伝の役割は、五山僧として学殖と教養に基ずき将軍の諮問に答え、外交文章や法度などの文章にあたるとこにあり、政策決定に参加するものではなかった。僧侶でありながら幕政を左右したという意味では「黒衣の最相」という後世の評価は過大評価である。職業上の記録「異国日記」「本光国師日記」「出世大望之衆目子留書」は幕府の重要資料である。





「高僧名僧伝・聖宝」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル。楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電子

2020-06-03 05:50:20 | 投稿済C

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聖宝(832年~909年)醍醐寺開祖で当山派修験の祖と仰がれる。平安初期の真言僧。理源大師。天智天皇6世の孫で俗名垣蔭王。847年(承和14年)16歳で東大寺に入り、空海の弟子真雅を師として出家、三論・法相・華厳の各宗を学んだ。869年(貞観11)興福寺維摩会の堅義を務めた。874年醍醐寺の密教修業の道場として開き、880年(元慶4)高野山で真然に密教の大法を授かり、実践面の山林修行により験力を得、加持祈祷により庶民を救うことに尽力。大峰修業路を復旧し、中世後期から修験道の中興と仰がれれる。東大寺東南院を建立、貞観寺座主・東寺長者等を歴任。


「高僧名僧伝・法然」電子書籍紹介。アマゾン・グーグル・楽天・角川電子書籍・BOOK★WALKER電子」

2020-06-02 06:08:40 | 投稿済C


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法然(1133年~1212年)浄土宗開祖。諱は源空、諡号は円光大師。父は美作国久米郡押領使の漆間時国、母は秦氏。9歳の時、夜討ちで父を亡くし、同国菩提寺の観覚のもとに預けられた。15歳で比叡山に登って持法房源光、ついで功徳院皇円に師事して天台三大部を学ぶ。1150年(久安6)18歳で遁世して、西塔黒谷別所の慈眼房叡空の室に入り、法然房源空と称した。叡空は融通念仏の良忍の弟子で、円頓菩薩戒を伝持した人物であり、法然は浄土教と円頓の両者を学び受けた。法然はこののち生涯持戒を貫き、授戒戎師としても活躍している。顕密諸宗を学んで南都に遊学したのち、1175年(安元元)43歳で善導の「観無量寿経流」により改心した。凡夫も称名念仏で往生できると確信し、浄土宗を開いて、東山大谷の吉水に移った。1186年(文治2)延暦寺の顕真の発議で大原の勝林寺で浄土教を論じ、この大原問答で一躍注目を集めるようになり、1189年からは九条兼実邸に出入りするようになる。1190年(建久元)には重源の要請で、東大寺で浄土三部経を講説し、称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である。との選択本願念仏説を初めて披露した。1198年には三昧初得や夢中での善導対面などの神秘的体験によって思想的確信を深め、九条兼実の要請もあって「選択本願念仏集」を撰述本願念仏説を体系化するとともに、これを唯一の真の浄土教と主張した。しかし当時、最も低劣な行いと考えらえていた称名念仏を唯一絶対的価値を持つ往生行であると位置づけ、それ以外の一切の善行を往生行であるとしては無価値であるとした法然の主張は、当時の価値体系を根底から覆すものである。また「年貢を納めれば極楽往生できる」「領主に背けば地獄に堕ちる」という領主の民衆支配の論理を無意味化するものでもあった。そのために法然児は、治承・寿永の内乱後の社会的激流の渦の中に巻き込まれていくことになる。旧仏教は、諸行往生を否定する専修念仏を偏執の教えと指弾し、善行を妨げ念仏義を誤る悪魔の使いと非難した。1204年(元久元)には延暦寺が、翌年には興福寺が顕密八宗を代表して専修念仏禁止を上奏した。法然は七箇条制誡や送山門起請文を記して、弟子に旧仏教批判の自粛を求めて弾圧の回避を図ろうとした。朝廷は当初念仏と専修念仏の違いを理解できなかったこともあって、法然自ら自粛を求めるだけで処罰を行わなかった。1207年(建永2)に後鳥羽院の女房の無断出家が発覚して、院が激怒した。2月に専修念仏禁止令が発布され、弟子4名が死刑、法然も土佐に流罪となった。法然は同年12月に最勝四天王院供養の恩赦でで赦免され、摂津勝尾寺に寄萬。1211年(建暦元)11月帰洛を許され、翌年1月25日、大谷の住坊で「一枚起請文」を残して没した。