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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
菖 蒲 神 社
当杜は、元は袋田明神社と号していた。『風土記稿』菖蒲町の項には「袋田明神社 祭神は稲田姫命と去う。神体銅鏡にて本地薬師の像を彫れり、裏に「寛文9年(1669)と見ゆ、合殿に鷲宮・久伊豆の両社を置り、吉祥院持、末社稲荷天神合社 雷電 大黒天金毘羅秋葉聖徳太子合社」と記されている。
当社の鎮座地は、菖蒲城主佐々木氏の陣屋跡と伝えられる地のすぐ南西に位置しており、佐々木氏により中世末期に創建されたものと推測される。
当社の大元となった袋田明神社の社名は、近在の鷲宮神社(武夷鳥命)、玉敷神社(大己貴命)のお袋(母親)が稲田姫であることに由来すると伝えられている。また、見沼代用水の開削以前に旧河川のこの辺りを袋状に流れ、一面に田が広がっている所に坐す神に由来するとも考えられるが、明らかではない。
雪塚稲荷略縁起
当社は、城下町川越の十ヶ町の一つ、南町の氏神として崇拝されてきた。南町は、江戸から明治にかけて六十軒あまりの町であったが、江戸店を構える大商人を多く生み出し、明治十一年(一八七八)には県下初の国立銀行を開業させるなど、十ヶ町の中でも中心的商業地であった。
神社の創始は、口碑に「江戸の昔、ある大雪の夜、南町の通りに一匹の白狐が迷いあらわれた。これを見た若い衆数人が白狐を追い回してついに打ち殺し、挙句の果てにその肉を食したところたちまち熱病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現われるようになった。町内の者はこれを白狐の祟りだとして恐れおののき、近くの長喜院の境内に社をたて、白狐の皮とと骨を埋めて塚を築き、雪の日のできごとであったことにちなんで、雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した」という。
明治二十六年の川越大火によって、本殿、拝殿焼失、同三十年四月二十八日に再営した。その際土中のご神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納したという。
また、昭和五十五年社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され、「雪塚稲荷神社遺躰文政六年二月十二日御霊昇天 同年三月十二日御霊祭日と定め同年同日雪塚稲荷神社と称す」との銘文があった。
文政六年(一八二三)以来、とくに商売繁盛に霊験あらたかさをもって知られ、町内のみならず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の信仰に支えられてきた神社である。
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岩室観音について
一、縁起
武州比企郡岩室山の正観世音は、その昔、嗟峨天皇の御宇・弘法大師が諸国を遊歴しこの地に至り、岩窟を選び三味に入り、観世音の尊像を彫刻しこの岩窟に納め、岩によりて殿をかまえ岩室山と号し多くの人を血縁せしめました。
天正の終わり頃、太閤秀吉関東に出馬したとき、石田三成の士卆によって松山城が灰燼となり、 その餘焔大殿にかかり党宇残らず消失しても、尊像だけが不思議にも岩窟内に無事おわしました。
その後、龍性院中興第三世・尭音法師が師命を受けて遠近を駆け巡って檀信徒の助力を募つて、寛文年中に現在のお堂を造営したと伝えられています。
二、お堂
この建物、懸造りと称して、有名な京都清水寺の観音堂と同様で、稀に見る貴重な建物です。
三、ご縁日は毎月十八日
災難除け、交通安全、商売繁昌、安産等あらたかな霊験は、広く知られています。
岩室山龍性院
岩室観音と石仏
岩をうがって観音像をまつったところから岩室観音という。龍性院の境外仏堂である。
この観音のはじまりは弘仁年中(八一〇~八二四年)といわれているが、たしかな記録は残っていない。
松山城主が代々信仰し護持していたが、天正十八年(一五九〇年)松山城の攻防戦の際に兵火にあって当時のお堂は焼失してしまった。
現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(一六六一~一六七三年)に龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したものである。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては、めずしいものである。
また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模したもので、八十八体の仏像がまつってある。
また、この石仏をおがめば、いながらにして四国八十八ヶ所を巡拝したのと同じ功徳があるとされている。
平成十年三月 吉見町・埼玉県
四国八十八札所
こちら 一番から五十一番
むこう 五十二番から八十八番
四国八十八ケ所の霊場巡拝は、遍路の打ち振る鈴の音と、南無大師遍照金剛の称号と御詠歌の歌声でにぎわっています。
病気が治った
災難を免れた
家庭が平和になった
一度遍路すればまた行きたくなるとは、経験者の偽らざる言葉です。
弘法大師が霊場を開き衛門三郎がこれを整えてから、七、八百年から千年たつ現在この信仰はますます盛んであります。然し乍ら四国まで出掛けるのは大変なことなのでここに四国霊場と同じ八十八ケ寺の如来、菩薩、明王、天がまつられています。
心を込めて参拝ください。
岩室山龍性院
岩室観音
古城跡西北ノ麓岩室ニアリ 故ニ土人岩室観音ト号ス 正観音ナリ(別当寺柚沢村龍性院)
(Resource:「新篇武蔵国風土記稿」横見郡巻之二 根小屋村)
岩室観音から吉見観音にかけての約3.5kmの道のりは昔から吉見観音にお参りするために往来する人々の巡礼路であったともいわれています。岩室観音:子育て・安産・願いごと全般
?そのためにこの区間には昔から地元の人々や巡礼者に信仰され、願いごとに効くとされる縁起の良いお地蔵様や仏閣が数多くあります。
?近年、「願い事が叶うお寺」として人気の「吉見観音」参りにこの道を通るカップルも急増中。
?ハイキングがてら「願いごとの旅」を一度してみませんか?
菅 原 神 社
創建は、社伝によると応永年中(1394-1428)で、別当観音寺を開山した「忠良」なる者により行われたという。
以来、観音寺は松山城下の元宿にあって、氏子たちや近在の村々の者に諸祈祷を修したといわれる。『風土記稿』によると、観音寺は京都聖護院末の本山派修験で、東照山竹林坊と号していた。慶長十四年(1609)には、横見・比企両郡のうち一派の年行事職を許され、横見郡大串村毘沙門堂や比企郡長谷村不動堂をも兼帯する有力修験であった。また、万治三年(1660)の失火までは、東照大権現改葬の祭、観音寺に御霊棺を安置した縁をもって建立した東照宮の御宮があったと伝えている。(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
御祭神 菅原道真
御由緒 当社の創立年暦は未詳なれども、別当観音寺の開山忠良が応永年中鎮祭せるものと伝えられる。(忠良は永享三年正月二十六日寂)観音寺は万治三年失火、惜しくも所蔵の古文書悉く鳥有に帰した。
当社の鎮座地は、亀井庄に属し、松山領の本郷で、字を元宿分と言い、松山城下に宿並みをなし、小田原北条家「市の掟」を出した事からも、市の栄えた事がうかがわれる。
松山城は、応永の頃扇ケ谷上杉家の家老上田左衛門の築城になるもので、別当観音寺も亦、其頃創建されたものと思われる。天正十八年落城後、町並は現松山市街地に移ってしまった。
(Resource:「比企郡字神社誌(昭和35年3月30日刊)」神社庁比企郡支部事務所)