When words leave off music begins.
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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
なんじゃもんじゃの木
昭和三十八年二月十八日 市指定有形文化財
いつ誰が植えたか、名付けたか判らないが、明治、大正の頃には町民ばかりでなく、遠方から箭弓様にお参りに来た人々に「箭弓様のなんじゃもんじゃの木」として親しまれてきた木です。
この木は学名を「いぬざくら」という落葉樹の小喬木で、二年生の枝に四月頃白い五弁の小花が咲き、小さな果実をつけます。
目通り一・九メートル、幹は三メートルのあたりから二股に分かれていて、かっては美事な樹容を誇ったが、最近は諸事情により、このような姿になってしまいました。
「なんじゃもんじゃ」の由来は特定の植物名でなく、その土地、その地方で見慣れない珍しい植物を暫定的に呼んだのが、いつの間にか、その名になってしまったもののようです。
東京都青山の六道の辻にある和名「ひとつばたご」なども「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれています。
いづれにしても、この地方には極めて珍しい樹木であり、「箭弓様となんじゃもんじゃの木」のつながりを考えると是非今後も大切に保護していきたいものです。
昭和五十六年三月 東松山市教育委員会
神 明 神 社 所在地 久喜市菖蒲町上栢間
神明神社の創立は、社伝に景行天皇の時といわれる。祭神は、古くは天照皇大神、豊宇気毘売神、大宮売神の三神であったが、現在は天照皇大神、豊宇気毘売神の二神を祭っており、伊勢神宮の分霊のため、近年まで「神明両社」と呼んでいた。
江戸時代、徳川家譜代の家臣内藤四郎左衛門正成が、栢間および新堀、三箇、戸ヶ崎、小材の旧五か村を領してから、五か村の総鎮守として以来、歴代の領主が厚く崇敬した。
明治六年に村社となり、昭和十六年郷社に昇格し「神明神社」と改称、さらに昭和二十年に県社となった。
本殿は、天保八年(一八三五)に建てられたもので、昭和三十八年に屋根を改修している。
毎年一月十五日には、火防除と呼ばれる「鎮火祭」と、その火で粥を煮てその年の作物の豊凶を占う「筒粥」の神事が行われる。筒粥の神事は、大鍋に米三合水六升を入れ、葺の節のないところを長さ七寸位に切り、十八本を簀状にし麻で結ぶ。一本一本の葺に米粒が入る数によつて占い、多くの米粒がはいつたものほと豊作とされている。
昭和五十八年三月 久喜市教育委員会
当社は、播磨国姫路から上野国前橋に転封された松平氏と共にある神社で、藩士から武神として厚く信仰された。社伝によると、寛文七年(1667)に藩士が姫路の男山に社殿を建てたことから男山八幡とよばれ、藩主から二石の供料を下賜され、祭祀は井上蔵人なる者が行ったと伝える。
前橋藩主松平朝矩が姫路から前橋に転封されたのは、寛延二年(1749)のことである。この時、前橋城は利根川の乱流により一部破壊されていたので、明和五年(1768)幕府の許しを得て川越城に入居し、同六年(1769)前橋城を廃城とした。最後の藩主松平直克は、居城を川越城から本来の前橋に移すことを希望し、慶応元年(1865)に前橋城が完成するに伴い、前橋へ移転した。しかし、この時期、前橋藩二〇万七五六五石のうち比企郡に六万石余が残ったことから、これを支配するため、松山陣屋が置かれた。
このような藩の事情から当社も前橋・川越と次々遷座を迫られ、最後に松山陣屋(松葉町一丁目)に落ち着いたわけである。社殿は初め松山陣屋内の五番銃隊のそばに祀られたが、明治四年の廃藩置県後、陣屋が廃されたため、同じ陣屋内の鉄砲場跡に移され、現在に至っている。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
松山陣屋跡
東松山市指定史跡(昭和三十六年三月八日指定)
幕末における東松山市域の領地は、藩領、旗本領、幕府直轄領として領有され、市域の約半分の領地が川越藩松平大和守家直克に管理されておりました。
松平大和守家は、寛延二年(一七四九)の国替えにより、姫路から前橋藩主となりましたが、度重なる利根川の氾濫による前橋城の損壊により、明和四年(一七六七)松平朝矩のとき川越藩に移転しました。
川越藩の移転から一〇〇年後の慶応三年(一八六七)、藩主松平直克のとき、四年の歳月をかけて再建した前橋城に帰城することとなり、武蔵国比企郡を中心に前橋藩の飛び地として、約六万二千石余の領地が残ったため、これらの領地を治める必要から、慶応三年(一八六七)「松山陣屋」が置かれました。現在の松葉町一丁目のほぼ全域に渡る大規模なもので、幕末の動乱期を背景として主要施設は、堀と土塁に囲まれた堅牢な構えとなっています。
陣屋は、大政奉還後の明治四年(一八七一)の廃藩置県により、建設からわずか四年でその役割を終えることになりますが、当地方発展の礎となりました。
藩領はその後、前橋県、群馬県、入間県、熊谷県を経て明治九年(一八七六)現在の埼玉県に編入されることになります。
平成二十五年六月 東松山市教育委員会