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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
群馬県指定重要文化財 さ ざ え 堂
さざえ堂は、新田氏の始祖新田義重が京都からの養姫である祥寿姫の菩提を弔うために建立したと伝えられる祥寿山曹源寺の本堂であり、五年寛政五年四月(1793年)当時の火災のあとに再建されたものである。
構造は、江戸本所五ッ目の名刹天恩山羅漢寺の「三匝堂」の構造を継承しており、大工棟梁は、京都吉田家門下で龍舞の出身町田兵部栄清である。構造上の特徴としては、本尊魚藍観音にお詣りするとき、本尊を中心にしてその周りを右回りで三回巡ると、自然と元の位置に戻って礼拝できるように造られている。しかも、参詣人が多くても途中で入り交じることのない一方通行の形式になっており、これは古いインドの礼拝の形式で「右繞三匝(うにょうさんそう)」と言われ、仏陀礼拝の最高の形である。インドをはじめ世界のどこの建築物にもその例をみない極めて貴重な遺構である。
お詣りをしながら、知らないうちに三階まで上り、いつかまた初めの本尊の前にもどるというちょうど栄螺(さざえ)の殻の中を歩くようなところから、いつしか「さざえ堂」と呼ぶようになったという。
現在、埼玉県児玉町の成身院、福島県会津若松市の正宗寺のさざえ堂と合わせて、日本三さざえ堂と言われているが、曹源寺さざえ堂が最大である。
太田市教育委員会
十二所神社神像(五体)
十二所神社本殿に十六体の神像が安置されている。神像は神仏習合の影響により崇拝の対象として作られたものである。
神像はともに三十cm弱ほどの木彫一木造りで、胡粉を塗った後に彩色が施されている。十六体のうち五体に正元元年(1259)の銘があり、市重要文化財に指定されている。
うち一体は背面上部に「阿波天神」、背面下部の左右に「右志者為阿闍梨静毫」「現世安穏後世善処往生極楽也」、中央に「正元々年己未十月五日」の刻銘があり、日付の下に花押が刻まれる。銘文に見られる「阿闍梨静毫」は新田正義により仁和寺から招かれた円福寺初代住職であるとされる。この神像は静毫自身により生前の安穏と生来の安楽を祈って造像、奉安されたものと考えられる。
平成三年(1991)二月二八日
太田市教育委員会
伝新田氏累代の墓は茶臼山古墳前方部東側にあり、多層塔・五輪塔・板碑の台石20基ほどがある。石材は新田郡笠懸町西鹿田の天神山産出の凝灰石と同定されている。この中の一基の五輪塔地輪部に新田義貞の祖父新田基氏の法名とされる「沙弥道義」の銘文がある。:ここです→ Google マップ
昭和54年度に墓地の保存整備事業を実施した際、発掘調査が行なわれ、埋葬施設が確認された。出土した骨蔵器には、中国産の白磁四耳壺、常滑焼・渥美焼の壺、地場産の軟質陶器が用いられている。中国製磁器が出土することはめずらしく、新田氏の財力の大きさを物語るものであろう。他の出土遺物に、かわらけ、板碑(建武5年銘ほか)、渡来銭(北宋銭が中心)、仏具、阿弥陀教の一部を写経した経石などがあり、中世仏教信仰を知るうえでも興味深い。
墓が営まれた年代は骨蔵器・板碑・五輪塔群の様式から推定すると、鎌倉時代中期~南北朝時代(13世紀中頃~14世紀中頃)と考えられる。
(案内板より)
当村は高麗川の南岸に位置する。ここは川沿いが低地で、南にいくほどゆるやかな台地状になっていく。
当社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝える。
社名は「クニイチギ」と読み、これはおそらく水と関係あるものといわれる。
延喜式内社國渭地祇神社の伝承地については、従来、所沢市吉野字吉野に鎮座する北野天神社であることが定説となっている。しかし、当社の社殿から鎌倉期とおもわれる古瓦が出土していることや、樹相などが古いということを考えると、古社であることはまちがいない。
もと、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一は美称で、国で一番すばらしい社であるという意味が込められ、これが後に國渭地祇に転化されたものと思われる。このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)