When words leave off music begins.
BGM on "♪YouTube":
Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
ほうとうの由来
「うまいもんだよカボチャのほうとう」とつぶやきながニコニコしている。何事か自分の思ったとおりに事が運んだときに、つい口をついて出る言葉(若い人はあまり言わないが・・・。)
米飯がほとんど食べられなかった甲州の庶民にとって、ほうとうは最上の日常食。しかもそれに甘いカボチャが入れば言うことなし。
「ほうとう」は「餺飥(はくたく)」の音便。
餺飥とは何か。食の部だけで475字もある大漢和辞典によると餺飥は「餅の類。うどん。・・・・」とある。
餺飥が禅僧の手により中国から日本にもたらされ、ほうとうやうどんになったものである。
ほうとうという形は武田信玄公が、野戦食として用い甲州独特のものであり甲州人の誇りの郷土料理である。
当社は往古富士浅間神明合祀社と号し、別当を曹洞宗自保山福泉寺が務めたが、神仏分離により神明神社と改称し、その後は、明治九年から本山修験篠井村観音堂配下の八幡山正福院が復飾して姓を宮本と名乗って神職となり、三代に渡って祀職を務めている。
元来お浅間様と称する小高い山の上(現千代田中学校付近)に鎮座していたが、昭和十五年、この地に軍用飛行場の建設が計画されたため、現在地に移転した。
祀神は大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)である。三間社である本殿にはそれぞれに幣束を祀るが、配祀二神については不明である。
(中略)
もと当社は山に上に鎮座していた。この山は円周およそ二〇〇メートルの小高い土盛りで、社は富士向き(南西)に建ち、その周辺は樹木が生い茂り、あたかも富士山を思わせる景観を呈していたという。これは氏子の大変な労力の末造られたもので、ここから東北へおよそ五〇〇メートルの所にある「ヤダレ」と呼ぶ大きな池は盛り土に使われた土がここから運ばれたためできた池と伝える。
昭和に入り、我が国が国際情勢の現状打破を企てる中、軍用飛行場建設がこの地に計画されたため、立ち退きを余儀なくされ、昭和一五年現在地に移転した。よって氏子の労力の結晶である信仰的象徴としての富士山は、非常時に名の下にいやおうなしに取り壊されてしまった。
歴史的にみて、神仏分離に始まり、神社合祀、太平洋戦争及び戦後の混乱などにより古くから続いた多くの信仰及び行事が廃されてきたが、当地の例もその一つといえよう。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
奈良梨は、中世鎌倉から上信越に通じた鎌倉街道上道(かみつみち)が通った所で戦国期には伝馬宿駅として栄えた。氏子の鈴木家には天正十年(1582)十二月十九日付の「北条家伝馬掟」が残されている。
当社は明治四十年に上横田・下横田・奈良梨・伊勢根・高谷の五つの大字内にあった一一社を奈良梨の諏訪神社に合祀し、当時の村名を採って社名を八和田神社と改めて成立した。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
昔、信州諏訪の大祝諏訪小太郎頼水が、東国に下る折、「神木の刺さった所を住居にせよ」との氏神(諏訪神社)の託宣によって、神木の枝をちぎって東方に投げたところ、奈良梨に飛来して逆さに突き刺さり、そのまま根を下ろして成長したという。この大杉は水を呼ぶといわれ、奈良梨の耕地は余程の日照りが続いても田植えの水に困ることがないという言い伝えがあり、氏子の人たちの信仰を集めている。
当地では「蛇はお諏訪様の使いである」との言い伝えがあり、特に白蛇を見ると吉兆であるといわれている。現に神木の割れ目から白蛇が顔を出した時には氏子中が大騒ぎになったという。また、当地の境内にある弁天池と普賢寺は堀でつながり、弁天池に棲む白蛇と普賢寺の本尊である普賢菩薩が夜な夜な行き来をするという興味深い伝説も残されている。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
「山王様」の通称で親しまれている当社の祭神は、大山咋命、国常立尊、天忍穂耳尊、国狭槌尊、伊弉冉尊、瓊瓊杵尊、惶根尊の七柱である。境内には神木の児持杉や御神井もあり、古社然とした雰囲気が漂っている。ちなみに、児持杉は、樹齢約八〇〇年といわれる雌雄一対の大木で、源頼朝が植樹したという伝説があり、この杉を祈念する時は幼児が授かるといわれ、古くから近在の男女の信仰が厚い。
鳥居をくぐった先にある石段は「いろは四十八階段」といい、文化文政のころ、松岡寛道が寺子屋を開き、読み書き算盤や武芸等の教授に当たった際、足で数えながらいろはの文字と数の勉強ができるように作ったもので、材料の石は伊豆から運んで来たものという。また、境内には寛道の業績を称えて創建された筆塚もある。
(Resource:「埼玉の神社」埼玉県神社庁)
「平の山王様」「萩の山王様」と親しまれるこの萩日吉神社は、社伝によると欽明天皇六年(544)十二月に蘇我稲目(そがのいなめ)により創建されたと伝えられます。当初は、萩明神と称されましたが、平安時代初期に慈光寺一山鎮護のため、近江国(現滋賀県)比叡山麓にある坂本の日吉大社を勧請合祀して、萩日吉山王宮に改称したといわれています。源頼朝は文治五年(1189)六月、奥州の藤原泰衡追討に際し、慈光寺に戦勝祈願し、その宿願成就の後、慈光寺へ田畑千二百町歩を寄進しましたが、同時に当社へも御台北条政子の名により田畑一町七畝を寄進しています。以降社殿の造営が行われて別格の社となり、元禄十年(1697)以降は牧野家の崇敬が厚く、『風土記稿』には「山王社 村の鎮守なり」と記されています。明治元年(1868)の神仏分離令により、現在の神社名「萩日吉神社」となりました。
当社の本殿は、村内神社の中では最大規模であり、堂々とした荘厳な建物です。そのほか境内には境内社の八坂神社や神楽殿などがありますが、これらの建物を包み込むように広がる社叢は、平成三年三月に県指定天然記念物に指定されています。神社入口には御神木の児持杉もあり、この杉に祈願すれば子供が授かるといわれ、近郷近在の人々より厚く信仰されています。また、当社の使いである猿にちなみ、戦前まで流鏑馬(やぶさめ)祭りの日に「納め猿」という木彫りの猿像を神社の参道で売っていましたが、この納め猿とともに渡す縫い針も病気の治癒に効能ありと言われていました。現在、一月の例大祭の日に本殿において「納め猿」のみが有償で求められます。
平成17年3月 都幾川村教育委員会