ー 古きよき時代 ー
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「 含羞・恥じらい 」 。
紙面でこの二語を見た途端、いきなり数十年の昔に引き戻されたように感じた。
一輪の紅梅を目にしたコラムの筆者は「早すぎた開花を悔やみ、北風の中で頬を染める一輪には「含羞・恥じらい」という言葉がよく似合う」という。
筆者はさらに「現代人が置き去りにした感覚を教えてくれているのかもしれない」、と続ける。(「産経抄」 令和5.2.19)。
広辞苑によると含羞も、はにかみ・はじらいの意である。含羞も恥じらいも男について使われることはあまりない。年頃の女が一瞬見せる表情や仕草であって、それは男の方からすれば、少なくとも個人的には何とも形容の仕様のないいい感覚である。
それがどこかに置き去りになっているという。
果たしてそうだろうかと訝る必要はない。今や、街中であれ、電車の車内であれ、テレビの画像であれ、女たちが身に付けているもの、動作、口にすることばのほぼすべてが恥じらいとは無縁である。内実がないから表に出ようがない。
いちいち例を挙げたら切りがないが、最近ことばで一番びっくりしたのはテレビから「ボーッとして生きてんじゃねーよ!」という怒鳴り声が聞こえた時である。見ると目を吊り上げたおかっぱの女の子のマンガが出ている。まるで与太者のセリフである。毎週テレビの前でこれを聞く子は多分年頃になっても平気で口にする。
「あんなことを言ってたら嫁のもらい手はないな」と家内をふり返ると「男も同じようなものだからいいのよ」とつれないことを言った。
今、恥じらいに会おうと思えば、はるか昔、中学時代のアルバムを引っ張り出すか、藤沢周平や山本周五郎の世界を覗くしかない。