1945年(昭和20年)
8月9日午前11時02分長崎に原子爆弾(プルトニウム爆弾)が投下されました。
6日、広島原爆の日から3日目の今日は、
長崎原爆の日です。
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より一部転載
「昭和0年8月9日午前11時2分・・・
美しい長崎のまちが一瞬にして消えてしまいました。
原子爆弾というおそろしい爆弾が投下されたのです。
ここでは、なぜこのような出来事が起こったのか、
原子爆弾とはどんなものだったのか、
未来を生いきていく私が、
2度このようなおそろしい戦争をおこさないようにするために
どうしたらよいかいっしょに考えてみましょう」
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長崎原爆資料館 原爆の記録
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長崎 原爆投下から72年となる「原爆の日」
NHK NEWSWEB より一部転載
長崎市の田上市長は平和宣言で、ことし国連で採択された核兵器禁止条約の意義を強調し、
条約に反対する国々に対して核兵器に依存する安全保障の在り方を見直すよう求めることにしています。
長崎市の平和公園で開かれることしの平和祈念式典には、
安倍総理大臣のほか海外の58の国や地域の代表が参列して午前10時35分から始まります。
式典では、この1年間に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、
3551人の名前が書き加えられた17万5743人の原爆死没者名簿が納められたあと、
原爆が投下された時刻の午前11時2分に全員で黙とうします。・・・(中略)
「長崎を最後の被爆地に」と訴えてきた被爆者の平均年齢が81歳を超える中、
その切実な願いを受け継ぎ、核兵器のない世界をどう実現していくのかを考える一日となります。
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毎日新聞 被爆者自ら「あの日」再現 一部転載
・・・爆風で2~3メートル吹き飛ばされ、
割れた窓ガラスのかけらが左足にいくつも刺さった。
嘔吐(おうと)がしばらく続き、死を意識した。
通っていた山里小では全校児童1581人のうち約1300人が亡くなった。
浦上養育院は原爆による火災で焼け落ち、
本多さんは戦後、修道女と共に近くの焼け残った小屋で生活しながら、転校先の西浦上小に通った。
放射線の影響で髪の毛は抜け落ち、負傷した左足を引きずって歩いた。
他の子どもたちから「原爆病がうつる」といじめられた。
「何のためにこの世に生まれてきたんだろう」とつらかった。・・・
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離別。死別。差別。
戦争が起こると、別れることばかりだね。
二度と戦争が起きませんように。
世界中の戦争が終わりますように。
世界中の戦争で亡くなられた御霊が安らかでありますようお祈り申し上げます。
ブログ内リンク
真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」
儀間比呂志氏の版画絵本 太平洋戦争 以後 東日本大震災 以前 2
「沖縄のわらべうた」ほか 「戦場のメロディ」
「北のはやり歌」 "祈り" によって 第六感を取り戻す1
りんごの唄、北上夜曲、
ああ上野駅 他