(2017/ギレルモ・デル・トロ監督・共同脚本/サリー・ホーキンス、マイケル・シャノン、リチャード・ジェンキンス、マイケル・スタールバーグ、オクタヴィア・スペンサー、ダグ・ジョーンズ/124分)
2017年のオスカー受賞作でありますな。監督賞や美術賞、作曲賞も獲って、更には脚本賞や編集賞、主演女優賞他多数にノミネートされたという、まさに名作と呼ぶべき映画なんですが、巷では『これが作品賞?』という声が上がったのも確か。
半魚人と所謂さえない女性との恋物語が、ギレルモ・デル・トロ監督独特の世界の中で語られるファンタジーという事前情報にあんまり惹かれなくてほおっておきましたが、やっぱりオスカー像が送られた作品なので観る事にしました。
1960年代初めの米ソ冷戦時代のアメリカが舞台。
航空宇宙科学センターという政府の秘密研究所に掃除婦として働いているイライザ(ホーキンス)が主人公。
下が映画館になっているアパートの一室に住んでいる彼女は孤児院で育ち、子供の頃に首に受けた傷の影響か言葉がしゃべれない。耳は大丈夫なので聴くことには問題はないが、会話には手話か相手の聞き上手が必要だ。アパートの隣室にはゲイのイラストレーター、ジャイルズ(ジェンキンス)が居て、孤独な者同士仲良く暮らしている。
研究所への出勤は夕方。夜が通常の勤務時間なのだ。
ある日、航空宇宙科学センターに大きなタンクが運ばれてくる。中には水が詰まっていて何か生き物がいるようだ。そっと中を覗いたイライザは水かきのような手を持ったソレに興味を持った。
ソレはアマゾンの奥地で原住民から神と崇められていたのだが、現地で油田開発を行っていた際にアメリカ軍が捕獲したのだ。後にイライザはそれが人間と魚の合体人間のようなもの(=半魚人)とわかった。
ソレの管理者であるストリックランド(シャノン)は残酷な軍人で、獣のように彼を扱ったが、研究チームのホフステトラー博士(スタールバーグ)は人間の代わりに宇宙ロケットに乗せることが出来ると提案した。それによって宇宙開発に於いてソ連を一歩リードすることが出来ると。
軍の最高司令官ホイト元帥にストリックランドは半魚人の生体解剖を勧めた。肺呼吸とエラ呼吸が出来るこの生物の機能を調べることこそソ連を出し抜くことになるのだと。
掃除の合間に半魚人と僅かな意思の疎通が出来るようになっていたイライザは、ストリックランドの案が採用されることを知り、ジャイルズの力を借りて彼をこの施設から脱出させようと思うのだが・・・という話。
ウィキによると<脚本はデル・トロが幼少期に鑑賞した『大アマゾンの半魚人』の「ギルマンとジュリー・アダムスが結ばれていたら」という考えが基になっている>と書かれている。
僕は「半魚人」のホラー映画があったのは知っているが未見なのでよく分からない。いずれにしてもこの映画に半魚人と女性のラブロマンスなんて甘いムードは感じなかったな。
むしろ、半魚人が脱出した後にストリックランドが如何にして追い詰めていくかとか、実はソ連のスパイで半魚人を殺したくないホフステトラー博士のソ連上層部とのやりとりの方がハラハラして面白かった。
更に半魚人の扱いに?マークが付くんだよね。アマゾンで暮らしていたのなら淡水魚のはずなのに、ホフステトラー博士は彼を生かすには塩水が必要だとイライザに言っていたり、そのくせ水道水を部屋一杯にした中でイライザと愛し合ったりさせている。あのシーンも実際にはあり得ないよなぁ。
ま、ファンタジーだから許せるけど、もう一つ、海に逃がすのに何故雨の日を待ったんだろう。ボルチモア近郊の街だと思うけど、海なんて車でひょいと行けるでしょうに。
イライザも実は半魚人だったなんて話もあって、それはラストシーンで彼女の首の傷がエラの様に動くからだと思うけど、あれは半魚人君の魔法がかけられたせいだと思うけどなぁ。
レトロ調プラス水中の藻をイメージさせたような緑っぽい画調にして、しかも夜のシーンが多いので正にブラック・ファンタジー(或いはダーク・ファンタジー?)。
全裸で熱演のホーキンス嬢には申し訳ないけど、半魚人相手ではエロさも出ませんでしたな。色々とセックス関連の会話やシーンが多くて映倫ではR15+指定らしいですけど。
但し、先にも書いたようにサスペンスとしては登場人物の絡ませ方とか、シチュエーションの構成は面白かったです。
お薦め度は★三つ半。半魚人君のリアルさでむしろマイナスでした。
尚、ギレルモ・デル・トロ監督作品は今回初体験でありました。
2017年のオスカー受賞作でありますな。監督賞や美術賞、作曲賞も獲って、更には脚本賞や編集賞、主演女優賞他多数にノミネートされたという、まさに名作と呼ぶべき映画なんですが、巷では『これが作品賞?』という声が上がったのも確か。
半魚人と所謂さえない女性との恋物語が、ギレルモ・デル・トロ監督独特の世界の中で語られるファンタジーという事前情報にあんまり惹かれなくてほおっておきましたが、やっぱりオスカー像が送られた作品なので観る事にしました。
*
1960年代初めの米ソ冷戦時代のアメリカが舞台。
航空宇宙科学センターという政府の秘密研究所に掃除婦として働いているイライザ(ホーキンス)が主人公。
下が映画館になっているアパートの一室に住んでいる彼女は孤児院で育ち、子供の頃に首に受けた傷の影響か言葉がしゃべれない。耳は大丈夫なので聴くことには問題はないが、会話には手話か相手の聞き上手が必要だ。アパートの隣室にはゲイのイラストレーター、ジャイルズ(ジェンキンス)が居て、孤独な者同士仲良く暮らしている。
研究所への出勤は夕方。夜が通常の勤務時間なのだ。
ある日、航空宇宙科学センターに大きなタンクが運ばれてくる。中には水が詰まっていて何か生き物がいるようだ。そっと中を覗いたイライザは水かきのような手を持ったソレに興味を持った。
ソレはアマゾンの奥地で原住民から神と崇められていたのだが、現地で油田開発を行っていた際にアメリカ軍が捕獲したのだ。後にイライザはそれが人間と魚の合体人間のようなもの(=半魚人)とわかった。
ソレの管理者であるストリックランド(シャノン)は残酷な軍人で、獣のように彼を扱ったが、研究チームのホフステトラー博士(スタールバーグ)は人間の代わりに宇宙ロケットに乗せることが出来ると提案した。それによって宇宙開発に於いてソ連を一歩リードすることが出来ると。
軍の最高司令官ホイト元帥にストリックランドは半魚人の生体解剖を勧めた。肺呼吸とエラ呼吸が出来るこの生物の機能を調べることこそソ連を出し抜くことになるのだと。
掃除の合間に半魚人と僅かな意思の疎通が出来るようになっていたイライザは、ストリックランドの案が採用されることを知り、ジャイルズの力を借りて彼をこの施設から脱出させようと思うのだが・・・という話。
ウィキによると<脚本はデル・トロが幼少期に鑑賞した『大アマゾンの半魚人』の「ギルマンとジュリー・アダムスが結ばれていたら」という考えが基になっている>と書かれている。
僕は「半魚人」のホラー映画があったのは知っているが未見なのでよく分からない。いずれにしてもこの映画に半魚人と女性のラブロマンスなんて甘いムードは感じなかったな。
むしろ、半魚人が脱出した後にストリックランドが如何にして追い詰めていくかとか、実はソ連のスパイで半魚人を殺したくないホフステトラー博士のソ連上層部とのやりとりの方がハラハラして面白かった。
更に半魚人の扱いに?マークが付くんだよね。アマゾンで暮らしていたのなら淡水魚のはずなのに、ホフステトラー博士は彼を生かすには塩水が必要だとイライザに言っていたり、そのくせ水道水を部屋一杯にした中でイライザと愛し合ったりさせている。あのシーンも実際にはあり得ないよなぁ。
ま、ファンタジーだから許せるけど、もう一つ、海に逃がすのに何故雨の日を待ったんだろう。ボルチモア近郊の街だと思うけど、海なんて車でひょいと行けるでしょうに。
イライザも実は半魚人だったなんて話もあって、それはラストシーンで彼女の首の傷がエラの様に動くからだと思うけど、あれは半魚人君の魔法がかけられたせいだと思うけどなぁ。
レトロ調プラス水中の藻をイメージさせたような緑っぽい画調にして、しかも夜のシーンが多いので正にブラック・ファンタジー(或いはダーク・ファンタジー?)。
全裸で熱演のホーキンス嬢には申し訳ないけど、半魚人相手ではエロさも出ませんでしたな。色々とセックス関連の会話やシーンが多くて映倫ではR15+指定らしいですけど。
但し、先にも書いたようにサスペンスとしては登場人物の絡ませ方とか、シチュエーションの構成は面白かったです。
お薦め度は★三つ半。半魚人君のリアルさでむしろマイナスでした。
尚、ギレルモ・デル・トロ監督作品は今回初体験でありました。
・お薦め度【★★★=一見の価値あり】
「終盤の父と娘のじゃんけんには何度見ても胸が痛く、ウルウルとしてしまいます」と書いていますが、どんなシーンだったか書いておきましょう。
勿論ですが、「父と暮せば」を未見の方々にはネタバレ注意です。
シーンの切り替えに、黒地スクリーンに「火曜日」~「金曜日」までの白い文字がインサートされて、この父と娘のドラマが4日間の物語であることが分かります。
各曜日=各シーンの父娘の会話で木下青年と美津江の交際の進展具合が分かるのですが、併せて描かれるのが美津江の戦争体験です。それは徐々に、美津江の現在の心境に至った原因に迫っていきます。実質、映画のテーマからすればこのヒロインの戦争体験が重要なんですね。
自分は生きとってはいけない人間なのだ。
出来るだけひっそりと生きて、時が来れば静かに誰にも気づかれないようにこの世から消えてしまいたい。
美津江がなぜそのような心境に至ったのか。
亡霊となって現れた父親への戦争体験の告白によって明らかになっていくのです。
幼い頃からの親友がピカによって亡くなった事。
彼女の母親を見舞いに行った時に、『何故、あなたでなくうちの娘が亡くならなければならなかったの?!』と恨みがましく言われたこと。
その親友には命を助けられたのに。
親友からの手紙に応えようと、返事の手紙を書いたのがピカの落ちた日だった。
8月6日の朝、その手紙をもって町へ出ようとした時にふと落とし、拾い上げようとしゃがんだ時にピカは爆発したのです。しゃがんだ場所にはピカの光と爆風を避けるように石灯篭があり美津江は助かりました。なので、親友は命の恩人なのだ、そう言うのです。
そして、美津江の心に最も足かせのように重くのしかかっているのが、父親の死でした。
親友への手紙を出そうとした朝、父親は目の前に立っていたのです。
気が付くと、ピカの光に包まれた後、爆風に吹き飛ばれた瓦礫に押しつぶされ、顔の半分を焼かれ、火の粉に囲まれて竹造は倒れていたのです。
美津江は父を助けようとあらん限りの声で助けを呼びましたが、その辺一体阿鼻叫喚の地獄絵の中、当然救いの手は有りません。
死を覚悟した竹造は、美津江にこの場から立ち去ることを命令しますが、泣きじゃくって娘は答えない。
その時に、親子のじゃんけんが始まったのです。
『俺がグーを出すから、お前は勝て。そして立ち去れ!』
3年前の事を再現するように、美津江と竹造の亡霊がじゃんけんをする。
じゃんけんの度に娘はグーを出し、子供の頃からこうして父親は負けてくれたと泣きじゃくる。
原田芳雄と宮沢りえ、二人のじゃんけんをフルショットで描いたこのシーンに泣きました。胸が苦しくなりました。
この後、竹造はこう言います。
生き残った者にはこの戦争の事を語り継ぐ責任があるのではないか。もしも、お前が出来ないのであれば、出来る者を生んでくれと。それは俺の孫じゃ、ひい孫じゃ。
ラストシーン。
何かに救われたようなホッとした表情の美津江。
風呂の焚き付けが残っとったと裏へ消えていく竹造。
『おとったん。ありがとうありました』
美津江のショットから上へとパンするカメラに映ったのは原爆ドームの屋根でした。
兄の家族が広島県の福山市に居ますので、広島弁には馴染みがありますが、『ありがとうありました』は聞いたことがないと言ってました。
福山と広島では少し違うのかも。或は時代の違いかも。
勿論ですが、「父と暮せば」を未見の方々にはネタバレ注意です。
*
シーンの切り替えに、黒地スクリーンに「火曜日」~「金曜日」までの白い文字がインサートされて、この父と娘のドラマが4日間の物語であることが分かります。
各曜日=各シーンの父娘の会話で木下青年と美津江の交際の進展具合が分かるのですが、併せて描かれるのが美津江の戦争体験です。それは徐々に、美津江の現在の心境に至った原因に迫っていきます。実質、映画のテーマからすればこのヒロインの戦争体験が重要なんですね。
自分は生きとってはいけない人間なのだ。
出来るだけひっそりと生きて、時が来れば静かに誰にも気づかれないようにこの世から消えてしまいたい。
美津江がなぜそのような心境に至ったのか。
亡霊となって現れた父親への戦争体験の告白によって明らかになっていくのです。
幼い頃からの親友がピカによって亡くなった事。
彼女の母親を見舞いに行った時に、『何故、あなたでなくうちの娘が亡くならなければならなかったの?!』と恨みがましく言われたこと。
その親友には命を助けられたのに。
親友からの手紙に応えようと、返事の手紙を書いたのがピカの落ちた日だった。
8月6日の朝、その手紙をもって町へ出ようとした時にふと落とし、拾い上げようとしゃがんだ時にピカは爆発したのです。しゃがんだ場所にはピカの光と爆風を避けるように石灯篭があり美津江は助かりました。なので、親友は命の恩人なのだ、そう言うのです。
そして、美津江の心に最も足かせのように重くのしかかっているのが、父親の死でした。
親友への手紙を出そうとした朝、父親は目の前に立っていたのです。
気が付くと、ピカの光に包まれた後、爆風に吹き飛ばれた瓦礫に押しつぶされ、顔の半分を焼かれ、火の粉に囲まれて竹造は倒れていたのです。
美津江は父を助けようとあらん限りの声で助けを呼びましたが、その辺一体阿鼻叫喚の地獄絵の中、当然救いの手は有りません。
死を覚悟した竹造は、美津江にこの場から立ち去ることを命令しますが、泣きじゃくって娘は答えない。
その時に、親子のじゃんけんが始まったのです。
『俺がグーを出すから、お前は勝て。そして立ち去れ!』
3年前の事を再現するように、美津江と竹造の亡霊がじゃんけんをする。
じゃんけんの度に娘はグーを出し、子供の頃からこうして父親は負けてくれたと泣きじゃくる。
原田芳雄と宮沢りえ、二人のじゃんけんをフルショットで描いたこのシーンに泣きました。胸が苦しくなりました。
この後、竹造はこう言います。
生き残った者にはこの戦争の事を語り継ぐ責任があるのではないか。もしも、お前が出来ないのであれば、出来る者を生んでくれと。それは俺の孫じゃ、ひい孫じゃ。
ラストシーン。
何かに救われたようなホッとした表情の美津江。
風呂の焚き付けが残っとったと裏へ消えていく竹造。
『おとったん。ありがとうありました』
美津江のショットから上へとパンするカメラに映ったのは原爆ドームの屋根でした。
兄の家族が広島県の福山市に居ますので、広島弁には馴染みがありますが、『ありがとうありました』は聞いたことがないと言ってました。
福山と広島では少し違うのかも。或は時代の違いかも。
(2004/黒木和雄 監督・脚本/宮沢りえ=福吉美津江、原田芳雄=竹造、浅野忠信=木下正/99分)
「TOMORROW 明日 (1988)」で長崎原爆をテーマにした黒木和雄監督の、今度は広島を扱った作品。
元々は井上ひさしの戯曲だったそうで、確かに実質二人の出演者による会話劇だし、舞台も殆どヒロインの家の中かその玄関前しか出てこないのでそれははっきりわかりますね。
それでも約100分がだれることなく観れるんですから、二人の熱演の賜物でしょう。カメラワークは舞台劇に見せないように柔軟になされてますが、いかんせん台詞の多さ、会話のリズムから舞台劇感はぬぐえません。ただ、その父と娘の飾らない会話無くして生まれないドラマではあります。
父親を原爆で亡くした一人娘とその娘を案じて亡霊となって現れた父親の物語であります。
時は昭和23年。
福吉美津江は幼い頃に母親を亡くし旅館を営む父親と二人暮らしだったが、3年前のピカ(原爆)で父竹造を亡くしていた。雨が降るとあちこちから雨が漏れてくる元旅館が今の住まい。広島市内の公立図書館で受付をしているが、ある日、原爆の資料を集めているという青年が図書館を訪ねてきてから、家では亡くなったはずの竹造の亡霊が現れるようになった・・・。
オープニングは雷鳴轟く雨の中、美津江が帰宅したところから。
雷を怖がる美津江に押し入れの中の竹造が声を掛けるという奇妙なシーンからで、奇妙ながら最初は竹造が亡霊とは見えない。だけど、その後の長い会話の中で察せられます。
何故、竹造の亡霊は現れたのか?
それは、青年木下に淡い恋心を感じた美津江の想いが生んだもの。
『沢山の友人や知人、身内が亡くなった原爆から逃れて生き残った自分が幸せになっては申し訳ない』。そんな思いを胸に秘めた美津江の心を開かせようと現れたのです。
先日放送されたTVドラマ「夕凪の街 桜の国」でも似たような心情の少女が出て来ましたが、なんとなく分かりますね。
被爆者という立場が、将来に対して消極的にさせているというのも分かります。
岩手出身で戦時中は呉で海軍に所属していたという木下と美津江の交流が父娘の会話の中で語られ、ひとつの大きな軸になっていますが、折々に語られる8月6日当日及びその後の悲惨な体験が、まさに戦争の語り部としての説得力をもっています。
ツイッターにも書きましたが、終盤の父と娘のじゃんけんには何度見ても胸が痛く、ウルウルとしてしまいます。
お勧め度は★四つ。
宮沢りえも原田芳雄もこんなにじっくりと観るのは初めてで、特に原田の時にユーモラスな時に激しい感情を持った演技には感心しました。
2004年のブルーリボン賞で主演女優賞を受賞したそうです。
「TOMORROW 明日 (1988)」で長崎原爆をテーマにした黒木和雄監督の、今度は広島を扱った作品。
元々は井上ひさしの戯曲だったそうで、確かに実質二人の出演者による会話劇だし、舞台も殆どヒロインの家の中かその玄関前しか出てこないのでそれははっきりわかりますね。
それでも約100分がだれることなく観れるんですから、二人の熱演の賜物でしょう。カメラワークは舞台劇に見せないように柔軟になされてますが、いかんせん台詞の多さ、会話のリズムから舞台劇感はぬぐえません。ただ、その父と娘の飾らない会話無くして生まれないドラマではあります。
父親を原爆で亡くした一人娘とその娘を案じて亡霊となって現れた父親の物語であります。
*
時は昭和23年。
福吉美津江は幼い頃に母親を亡くし旅館を営む父親と二人暮らしだったが、3年前のピカ(原爆)で父竹造を亡くしていた。雨が降るとあちこちから雨が漏れてくる元旅館が今の住まい。広島市内の公立図書館で受付をしているが、ある日、原爆の資料を集めているという青年が図書館を訪ねてきてから、家では亡くなったはずの竹造の亡霊が現れるようになった・・・。
オープニングは雷鳴轟く雨の中、美津江が帰宅したところから。
雷を怖がる美津江に押し入れの中の竹造が声を掛けるという奇妙なシーンからで、奇妙ながら最初は竹造が亡霊とは見えない。だけど、その後の長い会話の中で察せられます。
何故、竹造の亡霊は現れたのか?
それは、青年木下に淡い恋心を感じた美津江の想いが生んだもの。
『沢山の友人や知人、身内が亡くなった原爆から逃れて生き残った自分が幸せになっては申し訳ない』。そんな思いを胸に秘めた美津江の心を開かせようと現れたのです。
先日放送されたTVドラマ「夕凪の街 桜の国」でも似たような心情の少女が出て来ましたが、なんとなく分かりますね。
被爆者という立場が、将来に対して消極的にさせているというのも分かります。
岩手出身で戦時中は呉で海軍に所属していたという木下と美津江の交流が父娘の会話の中で語られ、ひとつの大きな軸になっていますが、折々に語られる8月6日当日及びその後の悲惨な体験が、まさに戦争の語り部としての説得力をもっています。
ツイッターにも書きましたが、終盤の父と娘のじゃんけんには何度見ても胸が痛く、ウルウルとしてしまいます。
お勧め度は★四つ。
宮沢りえも原田芳雄もこんなにじっくりと観るのは初めてで、特に原田の時にユーモラスな時に激しい感情を持った演技には感心しました。
2004年のブルーリボン賞で主演女優賞を受賞したそうです。
・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて】
(2013/スパイク・ジョーンズ脚本・監督/ホアキン・フェニックス、スカーレット・ヨハンソン(=声のみ)、エイミー・アダムス、ルーニー・マーラ、オリヴィア・ワイルド/126分)
かくしてサマンサはターミネーターの一員となり人類に牙をむき始めるのです・・・な~んてね。
確かに観ながら「A.I.」も思い出したんですが、どっちかっつうと「ターミネーター」ですね。特にサマンサの暴走が激しい時は。例えばセオドアが書いた手紙を勝手に出版社に送って本にしちゃうなんて、いかんでしょう。セオドアの仕事は手紙の代筆なんだから少なくとも依頼者の承諾が必要だろうし、そもそも著作権は彼には無いでしょうしね。あるとすれば所属会社のハートフル・レター社ですから。
この映画を未見の人にはなんのこっちゃの書き出しでしょうが、この後もネタバレ全開が続くと思われるので、まだご覧になってない方はポチッと「タブを閉じる」事をおすすめします。
さて、予告編でも惹かれたし他の方々の評判も良さそうなのでレンタルしてきましたが、正直1回目は半分くらいしか納得できませんでした。セオドアが最後に書いたキャサリンへの陳謝と感謝の手紙も、えっと~キャサリンって誰だったっけ、みたいな(笑)。
めんどくさい話だなぁと思いつつ、2回目は重要な局面以外は早送りで、しかも感情が分かりやすいように吹き替え版で観ました。で、なんとなく理解できたかなぁと。いやいや理解と言うよりは自分なりに解釈が出来るレベルには至ったかなぁと。いずれにしても、今回は紹介記事ではなく“つぶやき”みたいなもんですわ。
舞台は近未来のアメリカ、L.Aで、主人公は手紙の代行会社ハートフル・レター社の男性社員セオドア。演じるはホアキン・フェニックス。個人的には久しぶりで、今回は鼻ひげを生やして神経質そうな男性です。
それもそのはず、セオドアは幼馴染から結婚に至った愛妻との別居がおよそ一年続いているんです。奥さんからの申し出のようですが、一方旦那は彼女の事が未だに忘れられずに過去の思い出に浸ってばかり。離婚の申し出に応えられない状態にあるのです。
そんなブルーな彼が街で人工知能が搭載された最新OSのCMに惹かれ購入します。
この時代のOSは音声認識が発達していて、メールの確認や内容の報告もOSがしてくれるというのがまず前提で、常に電源はONなので話し相手がいつもそばにいる感じなんですね。セオドアはインストールした新しいOSの案内の声に女性を選ぶ事にします。その声を担当したのがスカーレット・ヨハンソン。セクシーなハスキーボイスであります。
で、OSホステスの名前がサマンサ。彼女自身が十数万の赤ちゃん命名の本から100分の2秒で選んだ名前です。
コンピューターなのに気が利いていて相手に沿った話をしてくれる。それも唯の受け答えではなくて、学習機能も備わっているから段々と能動的なやり取りも出来るようになる。携帯端末にもサマンサをインストールすると、携帯端末のカメラ越しにセオドアや風景も見る事が出来る。更には勝手に音楽ソフトで作曲したりとか。こうなるともう完全にOSの暴走ですよね、今の感覚でいえば。
まさに電話の向こうに彼女がいるみたいで、終いにはテレフォンセックスみたいなことまでしてしまう。そんな事のあった次の日の朝なんか、お互いに照れくさそうな会話になったりして、見ようによっては荒唐無稽で、なに真剣に演技してんだろうって・・・実際思っちゃいました。
こうしてセオドアは真剣にサマンサに恋をし、キャサリンとの離婚にも踏ん切りがつく。
ところが、このセオドアの変化の一方で、実はサマンサにも変化があってるんですよね。なにせ人工知能ですから。サマンサ自身もしゃべってますが、製作者の意図を越えて成長していくわけです。
この映画をセオドアの再生物語と見る人もいますが、2度目で僕は、これはサマンサの成長物語ではないかと思いました。セオドアは単なる狂言回しでしかないのではと。
だって、セオドアって何か成長しました? サマンサが他のOSやバーチャル再生した故人と勝手に会話したりしてるって聞いた段階で、他にもセオドア的な立場の人間が居ると気付くべきだし、それを知った時はキャサリンの時と同じようにサマンサと口論をしている。全然成長なんかしてないですよねぇ。
含蓄のありそうなセリフもあった気がするけど、今は何も記憶に残っていません。
ということで、お勧め度は★二つ。僕にはリズムがゆったりとし過ぎ。倍速で丁度良かったです。
2013年のアカデミー賞で脚本賞を受賞。作品賞他3部門にもノミネートされたそうです。
<そして“サマンサ”の声を務めたスカーレット・ヨハンソンは、ローマ国際映画祭において、声だけの出演で史上初となる最優秀女優賞に輝いた>そうです。
かくしてサマンサはターミネーターの一員となり人類に牙をむき始めるのです・・・な~んてね。
確かに観ながら「A.I.」も思い出したんですが、どっちかっつうと「ターミネーター」ですね。特にサマンサの暴走が激しい時は。例えばセオドアが書いた手紙を勝手に出版社に送って本にしちゃうなんて、いかんでしょう。セオドアの仕事は手紙の代筆なんだから少なくとも依頼者の承諾が必要だろうし、そもそも著作権は彼には無いでしょうしね。あるとすれば所属会社のハートフル・レター社ですから。
この映画を未見の人にはなんのこっちゃの書き出しでしょうが、この後もネタバレ全開が続くと思われるので、まだご覧になってない方はポチッと「タブを閉じる」事をおすすめします。
*
さて、予告編でも惹かれたし他の方々の評判も良さそうなのでレンタルしてきましたが、正直1回目は半分くらいしか納得できませんでした。セオドアが最後に書いたキャサリンへの陳謝と感謝の手紙も、えっと~キャサリンって誰だったっけ、みたいな(笑)。
めんどくさい話だなぁと思いつつ、2回目は重要な局面以外は早送りで、しかも感情が分かりやすいように吹き替え版で観ました。で、なんとなく理解できたかなぁと。いやいや理解と言うよりは自分なりに解釈が出来るレベルには至ったかなぁと。いずれにしても、今回は紹介記事ではなく“つぶやき”みたいなもんですわ。
舞台は近未来のアメリカ、L.Aで、主人公は手紙の代行会社ハートフル・レター社の男性社員セオドア。演じるはホアキン・フェニックス。個人的には久しぶりで、今回は鼻ひげを生やして神経質そうな男性です。
それもそのはず、セオドアは幼馴染から結婚に至った愛妻との別居がおよそ一年続いているんです。奥さんからの申し出のようですが、一方旦那は彼女の事が未だに忘れられずに過去の思い出に浸ってばかり。離婚の申し出に応えられない状態にあるのです。
そんなブルーな彼が街で人工知能が搭載された最新OSのCMに惹かれ購入します。
この時代のOSは音声認識が発達していて、メールの確認や内容の報告もOSがしてくれるというのがまず前提で、常に電源はONなので話し相手がいつもそばにいる感じなんですね。セオドアはインストールした新しいOSの案内の声に女性を選ぶ事にします。その声を担当したのがスカーレット・ヨハンソン。セクシーなハスキーボイスであります。
で、OSホステスの名前がサマンサ。彼女自身が十数万の赤ちゃん命名の本から100分の2秒で選んだ名前です。
コンピューターなのに気が利いていて相手に沿った話をしてくれる。それも唯の受け答えではなくて、学習機能も備わっているから段々と能動的なやり取りも出来るようになる。携帯端末にもサマンサをインストールすると、携帯端末のカメラ越しにセオドアや風景も見る事が出来る。更には勝手に音楽ソフトで作曲したりとか。こうなるともう完全にOSの暴走ですよね、今の感覚でいえば。
まさに電話の向こうに彼女がいるみたいで、終いにはテレフォンセックスみたいなことまでしてしまう。そんな事のあった次の日の朝なんか、お互いに照れくさそうな会話になったりして、見ようによっては荒唐無稽で、なに真剣に演技してんだろうって・・・実際思っちゃいました。
こうしてセオドアは真剣にサマンサに恋をし、キャサリンとの離婚にも踏ん切りがつく。
ところが、このセオドアの変化の一方で、実はサマンサにも変化があってるんですよね。なにせ人工知能ですから。サマンサ自身もしゃべってますが、製作者の意図を越えて成長していくわけです。
この映画をセオドアの再生物語と見る人もいますが、2度目で僕は、これはサマンサの成長物語ではないかと思いました。セオドアは単なる狂言回しでしかないのではと。
だって、セオドアって何か成長しました? サマンサが他のOSやバーチャル再生した故人と勝手に会話したりしてるって聞いた段階で、他にもセオドア的な立場の人間が居ると気付くべきだし、それを知った時はキャサリンの時と同じようにサマンサと口論をしている。全然成長なんかしてないですよねぇ。
含蓄のありそうなセリフもあった気がするけど、今は何も記憶に残っていません。
ということで、お勧め度は★二つ。僕にはリズムがゆったりとし過ぎ。倍速で丁度良かったです。
2013年のアカデミー賞で脚本賞を受賞。作品賞他3部門にもノミネートされたそうです。
<そして“サマンサ”の声を務めたスカーレット・ヨハンソンは、ローマ国際映画祭において、声だけの出演で史上初となる最優秀女優賞に輝いた>そうです。
・お薦め度【★★=着想は、悪くはないけどネ】
(2003/ティム・バートン監督/ユアン・マクレガー、アルバート・フィニー、ビリー・クラダップ、ジェシカ・ラング、ヘレナ・ボナム=カーター、ダニー・デヴィート、アリソン・ローマン、ロバート・ギローム、マリオン・コティヤール、マシュー・マッグローリー、ミッシー・パイル、スティーヴ・ブシェミ、ダニエル・ウォレス/125分)
波乱万丈な人生を送ったらしい父親は、更に奇想天外な脚色を加えて息子に自分の昔話をし、小さい頃から聞かされてきた息子は、いつしかありえない話を信用しなくなり、どこかで自分は父親のことを何も知らないのではないかと思うようになる。話し好きな父親は、息子の結婚式でも同じような話をして息子を怒らせてしまい、以来父子は口をきかなくなった。間を取り持つのは母親だけ。結婚式から3年。父親が重い病気に罹り、息子は身重の妻を伴って実家を訪れるのだが・・・という話。
息子、ウィル・ブルームに扮したのは「スリーパーズ (1996)」や「あの頃ペニー・レインと (2000)」にも出ていたというビリー・クラダップ。どっちも観たけど覚えてないなぁ。
彼が観客に向かって父親の話をするという格好で物語りは進み、そこに現在の様子も折り込まれ、終盤が父親との別れのシーンになります。
息子はフランスでジャーナリストをしており、父親は息子は筆が立つが、お喋りは自分の方が上手いと言い放つ。
そんな父親エドワード・ブルームに扮するのはアルバート・フィニー。そして、エドワードの若い頃を演じるのがユアン・マクレガーであります。
母親役はジェシカ・ラング。
子供の頃に近くに魔女が住んでいて、片方のガラス玉の眼球で将来の自分の死ぬ所を見せて貰ったとか、4~5メートルはあろうかと思われる大男を村から追い出す為に友達になったとか、将来の奥さんとなる少女の情報を得る為に入ったサーカス団では団長が狼の化身だったとか、親父の話はホラ話にしか聞こえないんだが、ティム・バートンがお得意の華麗なカラー映像で再現してくれる。初めて見たので、例えば森の中で迷い込んだ村人が誰も靴を履いていない村でのエピソードは不気味さも感じたりもした。
終盤の父親の葬式で、それまで語られた不思議な人物たちが参列するので、あぁ父親の話はまんざら嘘でもなかったんだなと思うが、それでもあまりに過去エピソードが荒唐無稽過ぎて、どこまでが真実でどこら辺が脚色なのかは観客にも分からないまま。エドワードの人物像もまだぼんやりだなぁ。
今回は一度しか観てないので、過去エピソードが語る人生の真実のようなものも(そんなものが語られたのかどうかも含めて)良く分からなかったので、お薦め度は未定です。とりあえずは★二つ~二つ半といった所か。
ダニエル・ウォレスという作家の『ビッグフィッシュ 父と息子のものがたり』という原作があるそうです。
人生は杓子定規に考えるよりは楽しくやったもん勝ち、とそんな落としどころがある映画なのかなと思うけど・・・。
2003年のアカデミー賞で、作曲賞(ダニー・エルフマン)にノミネート。
ゴールデン・グローブでは、作品賞(コメディ/ミュージカル)、助演男優賞(フィニー)、音楽賞、歌曲賞(エディ・ヴェダー=“Man Of the Hour”作詞&作曲)にノミネートされたそうです。
[08.11(Sun) 追記]
エドワードの故郷は少年期のエピソードに出てくる川の関連でアラバマ州だというのがわかりました。川の名前は忘れましたが・・。
波乱万丈な人生を送ったらしい父親は、更に奇想天外な脚色を加えて息子に自分の昔話をし、小さい頃から聞かされてきた息子は、いつしかありえない話を信用しなくなり、どこかで自分は父親のことを何も知らないのではないかと思うようになる。話し好きな父親は、息子の結婚式でも同じような話をして息子を怒らせてしまい、以来父子は口をきかなくなった。間を取り持つのは母親だけ。結婚式から3年。父親が重い病気に罹り、息子は身重の妻を伴って実家を訪れるのだが・・・という話。
息子、ウィル・ブルームに扮したのは「スリーパーズ (1996)」や「あの頃ペニー・レインと (2000)」にも出ていたというビリー・クラダップ。どっちも観たけど覚えてないなぁ。
彼が観客に向かって父親の話をするという格好で物語りは進み、そこに現在の様子も折り込まれ、終盤が父親との別れのシーンになります。
息子はフランスでジャーナリストをしており、父親は息子は筆が立つが、お喋りは自分の方が上手いと言い放つ。
そんな父親エドワード・ブルームに扮するのはアルバート・フィニー。そして、エドワードの若い頃を演じるのがユアン・マクレガーであります。
母親役はジェシカ・ラング。
子供の頃に近くに魔女が住んでいて、片方のガラス玉の眼球で将来の自分の死ぬ所を見せて貰ったとか、4~5メートルはあろうかと思われる大男を村から追い出す為に友達になったとか、将来の奥さんとなる少女の情報を得る為に入ったサーカス団では団長が狼の化身だったとか、親父の話はホラ話にしか聞こえないんだが、ティム・バートンがお得意の華麗なカラー映像で再現してくれる。初めて見たので、例えば森の中で迷い込んだ村人が誰も靴を履いていない村でのエピソードは不気味さも感じたりもした。
終盤の父親の葬式で、それまで語られた不思議な人物たちが参列するので、あぁ父親の話はまんざら嘘でもなかったんだなと思うが、それでもあまりに過去エピソードが荒唐無稽過ぎて、どこまでが真実でどこら辺が脚色なのかは観客にも分からないまま。エドワードの人物像もまだぼんやりだなぁ。
今回は一度しか観てないので、過去エピソードが語る人生の真実のようなものも(そんなものが語られたのかどうかも含めて)良く分からなかったので、お薦め度は未定です。とりあえずは★二つ~二つ半といった所か。
ダニエル・ウォレスという作家の『ビッグフィッシュ 父と息子のものがたり』という原作があるそうです。
人生は杓子定規に考えるよりは楽しくやったもん勝ち、とそんな落としどころがある映画なのかなと思うけど・・・。
2003年のアカデミー賞で、作曲賞(ダニー・エルフマン)にノミネート。
ゴールデン・グローブでは、作品賞(コメディ/ミュージカル)、助演男優賞(フィニー)、音楽賞、歌曲賞(エディ・ヴェダー=“Man Of the Hour”作詞&作曲)にノミネートされたそうです。
[08.11(Sun) 追記]
エドワードの故郷は少年期のエピソードに出てくる川の関連でアラバマ州だというのがわかりました。川の名前は忘れましたが・・。
(1956/アルベール・ラモリス脚本・監督/パスカル・ラモリス、シュザンヌ・クルーティエ、サビーヌ・ラモリス/35分)
およそ40数年ぶりにアルベール・ラモリスの「赤い風船」を観ました。
「忘却エンドロール」の宵乃さんが記事をアップされていて、読んでいるうちにもしやと思いyoutubeを探したら見つけた次第。なんと、全編観れましたがな。
最初は、十代の頃にNHKの字幕スーパー。風船が生き物のように動くというなんとも不思議な話なんだけど、とっても面白かったのを覚えておりました。
街を見下ろす高台の、その建物の間から陽の光が差し込んでいるオープニング・ショットが美しい!
通学途中の小さな男の子が街灯に引っ掛かっている赤い風船を見つけてよじ登って取り、一緒に学校へ向かうが、先生には学校に風船は持ち込むなといわれ(近所のオジサンに持っててもらい)、家に帰っても御婆ちゃんに窓から捨てられてしまう。ところがこの風船、窓の外をフワフワするだけで何処かに飛んで行くことはなく、なので次の日も男の子は風船と一緒に学校に向かうのだが・・・という話。
作られたのは1956年。
CGが駆使できる現代ならいざ知らず、55年前にどうやって撮影したんでしょう?
観ていて、突然ラストシーンをぼんやりと思い出して、ホントにそうなるのかと半信半疑でしたが、その通りになって、自分の記憶が間違いでなかったのも嬉しかったし、そういうオチにしてくれた監督にも感激♪
最初は風船付では通学電車に乗れなかった少年が、翌日も風船を抱えてどうなっちゃうのかなぁと思ったら・・・という語りも巧い。
あれはドラえもんか、なんて思ったりもしますが、終盤、町でも有名になった為に大勢の子供達に追いかけられるハメに。段々と、風船が「自由」の象徴のように見えてきます。
戦争が終わり自由を取り戻したのに、やっぱり人間社会には不自由が多いんだなぁと、ラモリスはそんな事を言いたかったのではないかと。
主役の少年を演じているのは監督の息子パスカル。終盤で青い風船を抱えているのも、その妹のサビーヌだそうです。
そして、ラモリスが亡くなったのが1970年。<ドキュメンタリー映画『恋人たちの風』撮影のためにイランのテヘラン郊外をヘリコプターで飛行中、回転翼が電線に接触して墜落死した>とのこと。享年48歳。
空に憧れ、飛ぶことを愛した彼らしい最期に感じるのは私だけではないでしょう。
1956年の米国アカデミー賞で脚本賞、同じ年のカンヌ映画祭で短編部門のパルム・ドールを獲得した名作です。
およそ40数年ぶりにアルベール・ラモリスの「赤い風船」を観ました。
「忘却エンドロール」の宵乃さんが記事をアップされていて、読んでいるうちにもしやと思いyoutubeを探したら見つけた次第。なんと、全編観れましたがな。
最初は、十代の頃にNHKの字幕スーパー。風船が生き物のように動くというなんとも不思議な話なんだけど、とっても面白かったのを覚えておりました。
*
街を見下ろす高台の、その建物の間から陽の光が差し込んでいるオープニング・ショットが美しい!
通学途中の小さな男の子が街灯に引っ掛かっている赤い風船を見つけてよじ登って取り、一緒に学校へ向かうが、先生には学校に風船は持ち込むなといわれ(近所のオジサンに持っててもらい)、家に帰っても御婆ちゃんに窓から捨てられてしまう。ところがこの風船、窓の外をフワフワするだけで何処かに飛んで行くことはなく、なので次の日も男の子は風船と一緒に学校に向かうのだが・・・という話。
作られたのは1956年。
CGが駆使できる現代ならいざ知らず、55年前にどうやって撮影したんでしょう?
観ていて、突然ラストシーンをぼんやりと思い出して、ホントにそうなるのかと半信半疑でしたが、その通りになって、自分の記憶が間違いでなかったのも嬉しかったし、そういうオチにしてくれた監督にも感激♪
最初は風船付では通学電車に乗れなかった少年が、翌日も風船を抱えてどうなっちゃうのかなぁと思ったら・・・という語りも巧い。
あれはドラえもんか、なんて思ったりもしますが、終盤、町でも有名になった為に大勢の子供達に追いかけられるハメに。段々と、風船が「自由」の象徴のように見えてきます。
戦争が終わり自由を取り戻したのに、やっぱり人間社会には不自由が多いんだなぁと、ラモリスはそんな事を言いたかったのではないかと。
主役の少年を演じているのは監督の息子パスカル。終盤で青い風船を抱えているのも、その妹のサビーヌだそうです。
そして、ラモリスが亡くなったのが1970年。<ドキュメンタリー映画『恋人たちの風』撮影のためにイランのテヘラン郊外をヘリコプターで飛行中、回転翼が電線に接触して墜落死した>とのこと。享年48歳。
空に憧れ、飛ぶことを愛した彼らしい最期に感じるのは私だけではないでしょう。
1956年の米国アカデミー賞で脚本賞、同じ年のカンヌ映画祭で短編部門のパルム・ドールを獲得した名作です。
・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて】
終盤で切なくなるという印象があった「天国から来たチャンピオン」だけど、実は何故そんな気持ちにさせられたのか記憶が曖昧になっておりました。数十年ぶりに観て、今度は忘れないように記事にしておきます。
当然、未見の方々にはネタバレ注意ですよ。
マックスに見た目はファーンズワースでも中身は自分であることを分かってもらったジョーは、ファーンズワースのままでクォーター・バックになってスーパーボウルに出場するという計画を話し、金の力でチームの買収も実行する。最初はチームメイトからは拒絶されたが、やがて彼の熱心さと技術の高さを認められ、一緒にプレー出来るようになる。
ところがそんな矢先、妻の愛人となっていた秘書がついにファーンズワースを鉄砲で撃ち殺してしまう。遺体は庭の井戸の中に落ちてしまったので彼は行方不明となり、スーパーボウルが開催された夜、ファーンズワースの家では警察による捜査と尋問が行われ、下男が井戸の中にファーンズワースの洋服を見つけ、悪者二人の犯行が明らかになる。
マックスも捜査に協力していたが、TV中継では彼のチームの若いQB、トム・ジャレットが重傷を負って退場となるも、次の瞬間スックと立ち上がり、それを見ていたマックスはあれはジョーが乗り移ったに違いないと確信する。
試合は、その後のジョーの活躍もあり見事優勝する。優勝に沸き立つロッカールームにやってきたマックスは、トムに乗り移ったジョーと再会、共に喜び合う。
そんなジョーに天使のジョーダン氏は、今までのファーンズワースは仮の身体だったが、今後はこの若者に完全になりきる為に今までの記憶は全て無くなると言われる。事態をハッキリと飲み込めないままジョーはシャワーを浴びに行き、やがてロッカールームに帰ってきた彼はもうジョー・ペンドルトンではなかった。
切ない気持ちになるのは、ここでジョーが本当にこの世から消えてなくなるからですね。
マックは今まで通りにジョーのつもりで話しかけるが、トムの様子が変なので、やがてジョーがいなくなった事を知る。怪訝な様子のトムに『どうしたんだ?』と聞かれ、『ジョーが忘れられないんだ』ととっさに嘘をつく。死んだと思われたジョーがファーンズワースの身体で生き返ったこと、そしてまた居なくなったこと。全て知っているのに、この事は自分の心の中にしまっておくしかない。マックスの気持ちにも切ないものがありますね。
ラストシーンは、試合会場にマックスを追ってきたベティとジョーの記憶をなくしたトムが人気の無い通路で会うところ。トムにはベティの記憶は無いし、ベティにも初対面の人間だ。
ところが、最初に見た瞬間からトムは彼女とどこかで逢ったような気がしたし、話をするうちにベティにも彼が気になってくる。それは、仮住まいだったファーンズワースが居なくなってしまうことを知ったジョーが、行方不明になる直前に彼女に言った不思議な話が思い出されたからだ・・・。
この辺りの展開は、youtubeに動画があったので(↓)、そちらでお楽しみいただきましょうか。9分過ぎから二人のシーンになります。
いやぁ、映画って本当にイイですね
当然、未見の方々にはネタバレ注意ですよ。
*
マックスに見た目はファーンズワースでも中身は自分であることを分かってもらったジョーは、ファーンズワースのままでクォーター・バックになってスーパーボウルに出場するという計画を話し、金の力でチームの買収も実行する。最初はチームメイトからは拒絶されたが、やがて彼の熱心さと技術の高さを認められ、一緒にプレー出来るようになる。
ところがそんな矢先、妻の愛人となっていた秘書がついにファーンズワースを鉄砲で撃ち殺してしまう。遺体は庭の井戸の中に落ちてしまったので彼は行方不明となり、スーパーボウルが開催された夜、ファーンズワースの家では警察による捜査と尋問が行われ、下男が井戸の中にファーンズワースの洋服を見つけ、悪者二人の犯行が明らかになる。
マックスも捜査に協力していたが、TV中継では彼のチームの若いQB、トム・ジャレットが重傷を負って退場となるも、次の瞬間スックと立ち上がり、それを見ていたマックスはあれはジョーが乗り移ったに違いないと確信する。
試合は、その後のジョーの活躍もあり見事優勝する。優勝に沸き立つロッカールームにやってきたマックスは、トムに乗り移ったジョーと再会、共に喜び合う。
そんなジョーに天使のジョーダン氏は、今までのファーンズワースは仮の身体だったが、今後はこの若者に完全になりきる為に今までの記憶は全て無くなると言われる。事態をハッキリと飲み込めないままジョーはシャワーを浴びに行き、やがてロッカールームに帰ってきた彼はもうジョー・ペンドルトンではなかった。
切ない気持ちになるのは、ここでジョーが本当にこの世から消えてなくなるからですね。
マックは今まで通りにジョーのつもりで話しかけるが、トムの様子が変なので、やがてジョーがいなくなった事を知る。怪訝な様子のトムに『どうしたんだ?』と聞かれ、『ジョーが忘れられないんだ』ととっさに嘘をつく。死んだと思われたジョーがファーンズワースの身体で生き返ったこと、そしてまた居なくなったこと。全て知っているのに、この事は自分の心の中にしまっておくしかない。マックスの気持ちにも切ないものがありますね。
ラストシーンは、試合会場にマックスを追ってきたベティとジョーの記憶をなくしたトムが人気の無い通路で会うところ。トムにはベティの記憶は無いし、ベティにも初対面の人間だ。
ところが、最初に見た瞬間からトムは彼女とどこかで逢ったような気がしたし、話をするうちにベティにも彼が気になってくる。それは、仮住まいだったファーンズワースが居なくなってしまうことを知ったジョーが、行方不明になる直前に彼女に言った不思議な話が思い出されたからだ・・・。
この辺りの展開は、youtubeに動画があったので(↓)、そちらでお楽しみいただきましょうか。9分過ぎから二人のシーンになります。
いやぁ、映画って本当にイイですね
(1978/監督:ウォーレン・ビーティ&バック・ヘンリー/ウォーレン・ビーティ、ジュリー・クリスティ、ジェームズ・メイソン、ジャック・ウォーデン、チャールズ・グローディン、ダイアン・キャノン、バック・ヘンリー/101分)
車に轢かれたプロ・フットボールの選手が、新米天使のミスで寿命がきていないのに"この世”から"あの世”への中継ぎ場所に連れて来られる。ミスに気付いた天使の先輩が現世に戻そうとするが、時既に遅し、彼の体は火葬され灰になっていた為に、妻とその愛人に殺されたばかりの若き実業家の体に乗り移ることになるのだが・・・というお話。
原題は【HEAVEN CAN WAIT】。
ファンタジーですな。プラス、ラブロマンスと男の友情がペーソスをまじえて描かれております。
1941年にアレクサンダー・ホール監督が作った「幽霊紐育を歩く」のリメイクで、元ネタの主人公がボクシングの選手という違いくらいで、名前も人間関係もよ~く似ているようです。
脚本がエレイン・メイとウォーレン・ビーティ、監督がウォーレン・ビーティとバック・ヘンリーと、三人が三人とも本も書ければ演出も演技も出来るという都会派コメディが得意な人たちで、オリジナルよりコメディ色が強いような気もしますが、ドタバタ喜劇ではなく、大人のユーモアと情があふれる作品です。
主人公のフットボールのQB(クォーターバック)、ジョー・ペンドルトンにビーティ。
浮気妻にはダイアン・キャノン。その愛人で寝取られ夫の秘書役がチャールズ・グローディンと脇の人物も芸達者が一杯。新米天使にバック・ヘンリー、先輩天使には(渋い!)ジェームズ・メイソン、そして男の友情とペーソスを感じさせる主人公のトレーナー兼コーチ役がジャック・ウォーデン(またまた渋い!)。個人的には、ジャック・ウォーデン扮するマックスが好きですネ。
おっと、肝心のジョーの恋人が抜けてました。オリジナルでも同じ名前だったベティ・ローガン役にはジュリー・クリスティです。
ファンタジーで、いわゆる幽霊やら天使やらが出てくるので、その辺りの映画作法上の設定が必要なわけですが、まずはこの世に出没する天使たちは、ジョーには見える(勿論、観客にも見える)のですが他の人たちには見えていない事になっています。
もう一つの秀逸な設定が、ジョーが乗り移っている身体は他人のモノなので当然姿形はジョーとは違うはずなのに、ジョー役のビーティがそのまま演じているということ。更に、映画に登場する他の人達の目には、その人物はジョーではなくて乗り移られている元の人物のままに見えているということ。身体は他人の借り物でも魂はジョーという設定なので、ビーティが全て演じた方が観客には分かりやすいし、自然の流れのようでもありますが、これが終盤の展開でなんともいえない味わいを出してくるのですよね。
スポーツの種類以外で気が付いたオリジナルとの違いは、ジョーが乗り移る大企業の社長の名前。元ネタではブルース・ファーンズワースでしたが、リメイクではリオ・ファーンズワースとなっていました。
ファーンズワースは複数の会社を経営している人物で、近隣住民との軋轢やら、公害訴訟など何かと問題も多い。ベティ・ローガンも彼の会社が立ち退きさせようとしている地域の反対意見を代表してやって来た学校教師で、美しい彼女を見たジョーが彼女を助けたい一心でファーンズワースに乗り移った次第。奥さんや愛人が共謀して彼を亡き者にしようとする下りも、お色気サスペンス風で面白いです。
もう一つの違いは、ジョーが愛用する楽器。オリジナルではアルト・サックスで、リメイクではソプラノ・サックスのようでした。楽器はマックスとの絡みで小道具として利いてきます。
事故に遭う前のジョーはクォーターバックとして晴れの舞台に出場する予定だったので、なんとしてもフットボールが出来る人間に乗り移りたい。ファーンズワースの身体は仮住まいだったが、ベティに恋したためにファーンズワースのままで、身体を鍛えて試合に出ようとする。そこで、マックスにコーチ役を頼み、更にはそのチームを金の力で買収して自らをQBに据えようとする。
あと一歩で出場できそうだったのに、想定外の展開により、試合の出場も恋も失ってしまいそうになるのだが・・・という、ラストには余韻も残す佳品です。
1978年のアカデミー賞で、作品賞、主演男優賞、助演男優賞(ウォーデン)、助演女優賞(キャノン)、監督賞、脚色賞、撮影賞(ウィリアム・A・フレイカー)、作曲賞(デイヴ・グルーシン)にノミネート。美術監督・装置賞を受賞したそうです。
又、ゴールデン・グローブでは作品賞(コメディ/ミュージカル)と男優賞(ビーティ)、助演女優賞(キャノン)を受賞したそうです。
(↓Twitter on 十瑠 から)
「天国から来たチャンピオン」を久々に見る。やっぱり面白い。オリジナルの「幽霊紐育を歩く」も探したけど、こちらのツタヤにはなかった。データを見ると登場人物の名前とかもほとんど同じで、ただ、オリジナルはボクサーでウォーレン・ベイティのはフットボールの選手だ。
[Oct 30th webで 以下同]
ところで、「天国から来たチャンピオン」の原題が【HEAVEN CAN WAIT】。同じ原題で検索すると、ルビッチの「天国は待ってくれる」というのが出てくるが、これは全く違うストーリーだ。変なの。
※ 追加記事、ネタバレ備忘録はコチラ。
車に轢かれたプロ・フットボールの選手が、新米天使のミスで寿命がきていないのに"この世”から"あの世”への中継ぎ場所に連れて来られる。ミスに気付いた天使の先輩が現世に戻そうとするが、時既に遅し、彼の体は火葬され灰になっていた為に、妻とその愛人に殺されたばかりの若き実業家の体に乗り移ることになるのだが・・・というお話。
原題は【HEAVEN CAN WAIT】。
ファンタジーですな。プラス、ラブロマンスと男の友情がペーソスをまじえて描かれております。
1941年にアレクサンダー・ホール監督が作った「幽霊紐育を歩く」のリメイクで、元ネタの主人公がボクシングの選手という違いくらいで、名前も人間関係もよ~く似ているようです。
脚本がエレイン・メイとウォーレン・ビーティ、監督がウォーレン・ビーティとバック・ヘンリーと、三人が三人とも本も書ければ演出も演技も出来るという都会派コメディが得意な人たちで、オリジナルよりコメディ色が強いような気もしますが、ドタバタ喜劇ではなく、大人のユーモアと情があふれる作品です。
主人公のフットボールのQB(クォーターバック)、ジョー・ペンドルトンにビーティ。
浮気妻にはダイアン・キャノン。その愛人で寝取られ夫の秘書役がチャールズ・グローディンと脇の人物も芸達者が一杯。新米天使にバック・ヘンリー、先輩天使には(渋い!)ジェームズ・メイソン、そして男の友情とペーソスを感じさせる主人公のトレーナー兼コーチ役がジャック・ウォーデン(またまた渋い!)。個人的には、ジャック・ウォーデン扮するマックスが好きですネ。
おっと、肝心のジョーの恋人が抜けてました。オリジナルでも同じ名前だったベティ・ローガン役にはジュリー・クリスティです。
ファンタジーで、いわゆる幽霊やら天使やらが出てくるので、その辺りの映画作法上の設定が必要なわけですが、まずはこの世に出没する天使たちは、ジョーには見える(勿論、観客にも見える)のですが他の人たちには見えていない事になっています。
もう一つの秀逸な設定が、ジョーが乗り移っている身体は他人のモノなので当然姿形はジョーとは違うはずなのに、ジョー役のビーティがそのまま演じているということ。更に、映画に登場する他の人達の目には、その人物はジョーではなくて乗り移られている元の人物のままに見えているということ。身体は他人の借り物でも魂はジョーという設定なので、ビーティが全て演じた方が観客には分かりやすいし、自然の流れのようでもありますが、これが終盤の展開でなんともいえない味わいを出してくるのですよね。
スポーツの種類以外で気が付いたオリジナルとの違いは、ジョーが乗り移る大企業の社長の名前。元ネタではブルース・ファーンズワースでしたが、リメイクではリオ・ファーンズワースとなっていました。
ファーンズワースは複数の会社を経営している人物で、近隣住民との軋轢やら、公害訴訟など何かと問題も多い。ベティ・ローガンも彼の会社が立ち退きさせようとしている地域の反対意見を代表してやって来た学校教師で、美しい彼女を見たジョーが彼女を助けたい一心でファーンズワースに乗り移った次第。奥さんや愛人が共謀して彼を亡き者にしようとする下りも、お色気サスペンス風で面白いです。
もう一つの違いは、ジョーが愛用する楽器。オリジナルではアルト・サックスで、リメイクではソプラノ・サックスのようでした。楽器はマックスとの絡みで小道具として利いてきます。
事故に遭う前のジョーはクォーターバックとして晴れの舞台に出場する予定だったので、なんとしてもフットボールが出来る人間に乗り移りたい。ファーンズワースの身体は仮住まいだったが、ベティに恋したためにファーンズワースのままで、身体を鍛えて試合に出ようとする。そこで、マックスにコーチ役を頼み、更にはそのチームを金の力で買収して自らをQBに据えようとする。
あと一歩で出場できそうだったのに、想定外の展開により、試合の出場も恋も失ってしまいそうになるのだが・・・という、ラストには余韻も残す佳品です。
1978年のアカデミー賞で、作品賞、主演男優賞、助演男優賞(ウォーデン)、助演女優賞(キャノン)、監督賞、脚色賞、撮影賞(ウィリアム・A・フレイカー)、作曲賞(デイヴ・グルーシン)にノミネート。美術監督・装置賞を受賞したそうです。
又、ゴールデン・グローブでは作品賞(コメディ/ミュージカル)と男優賞(ビーティ)、助演女優賞(キャノン)を受賞したそうです。
*
(↓Twitter on 十瑠 から)
「天国から来たチャンピオン」を久々に見る。やっぱり面白い。オリジナルの「幽霊紐育を歩く」も探したけど、こちらのツタヤにはなかった。データを見ると登場人物の名前とかもほとんど同じで、ただ、オリジナルはボクサーでウォーレン・ベイティのはフットボールの選手だ。
[Oct 30th webで 以下同]
ところで、「天国から来たチャンピオン」の原題が【HEAVEN CAN WAIT】。同じ原題で検索すると、ルビッチの「天国は待ってくれる」というのが出てくるが、これは全く違うストーリーだ。変なの。
※ 追加記事、ネタバレ備忘録はコチラ。
・お薦め度【★★★★=友達にも薦めて】
(2002/ロベルト・ベニーニ監督・脚本/ロベルト・ベニーニ(=ピノッキオ)、ニコレッタ・ブラスキ(=青い妖精)、カルロ・ジュフレ(ジェペット)/111分)
だいぶん前にNHK-BS放送を録画していたR・ベニーニの実写版「ピノッキオ」を観る。本場物ですな。
キツネとネコの悪巧み二人組も、指南役のコオロギもディズニーのアニメと一緒。ストーリーもほぼアニメ通りだった。
実写版といってもCGを使ったファンタジー色を出したもので、しかし子供の頃から知っている物語なので、近代的なCGでは返ってお伽話ムードが弱まった感がある。
しかも、てっきり字幕スーパーだと思っていたら、再生すると吹き替えだった。
ベニーニ扮するひねたピノッキオの声はユースケ・サンタマリア、ゼペット爺さんは“磯野波平さん”の永井一郎。永井さんは順当だが、しわがれ声のピノッキオは如何なものか。ベニーニの風貌にユースケの声は合っているが、そもそもオジさんのベニーニのピノッキオがおかしい。
松の木の人形ピノッキオが出来上がるまでが、もう少しゆっくり語られるかと思っていたら、開始早々にピエロのような格好をしたピノッキオが登場し、しかも軽快に動き出し、しゃべりだし、おまけにコレが嘘つきで暴れん坊なのも興ざめだった。子供だから元気なのは良いとしても、根っからの悪そう坊主のような言動は取っ付きにくい。原作のニュアンスがそうなっているんだろうか?
ピノッキオが驢馬になる前夜のお祭り騒ぎの描写にはフェリーニを意識した趣があるが、ダイナミックさで劣るな。
それと、ディズニーではピノッキオとゼペットは海で鯨に飲み込まれるが、コチラでは大きな鮫だった。
映像を観れば力作なのは分かるけどなぁ・・・。
だいぶん前にNHK-BS放送を録画していたR・ベニーニの実写版「ピノッキオ」を観る。本場物ですな。
キツネとネコの悪巧み二人組も、指南役のコオロギもディズニーのアニメと一緒。ストーリーもほぼアニメ通りだった。
実写版といってもCGを使ったファンタジー色を出したもので、しかし子供の頃から知っている物語なので、近代的なCGでは返ってお伽話ムードが弱まった感がある。
しかも、てっきり字幕スーパーだと思っていたら、再生すると吹き替えだった。
ベニーニ扮するひねたピノッキオの声はユースケ・サンタマリア、ゼペット爺さんは“磯野波平さん”の永井一郎。永井さんは順当だが、しわがれ声のピノッキオは如何なものか。ベニーニの風貌にユースケの声は合っているが、そもそもオジさんのベニーニのピノッキオがおかしい。
松の木の人形ピノッキオが出来上がるまでが、もう少しゆっくり語られるかと思っていたら、開始早々にピエロのような格好をしたピノッキオが登場し、しかも軽快に動き出し、しゃべりだし、おまけにコレが嘘つきで暴れん坊なのも興ざめだった。子供だから元気なのは良いとしても、根っからの悪そう坊主のような言動は取っ付きにくい。原作のニュアンスがそうなっているんだろうか?
ピノッキオが驢馬になる前夜のお祭り騒ぎの描写にはフェリーニを意識した趣があるが、ダイナミックさで劣るな。
それと、ディズニーではピノッキオとゼペットは海で鯨に飲み込まれるが、コチラでは大きな鮫だった。
映像を観れば力作なのは分かるけどなぁ・・・。
・お薦め度【★=特に、お薦めはしません】
(1996/ペニー・マーシャル 監督/デンゼル・ワシントン、ホイットニー・ヒューストン、コートニー・B・ヴァンス、グレゴリー・ハインズ、ライオネル・リッチー、ピエール・エドマンド/120分)
母親に捨てられた為に遠くの町に里子に出される友達との別れを悲しむ幼い息子、不動産屋に追い立てを食らっている近隣の住民、誤認逮捕された保護観察中の少年、そんな人々の助けになってやれないと自分の力不足を嘆く牧師コートニー・B・ヴァンスのもとに、天使デンゼル・ワシントンが使わされ、牧師に迷惑がられながらも諸問題を解決し去っていくという、半世紀前のヘンリー・コスタ監督作「気まぐれ天使(1947)」をもとにした人情話だが、ペニー・マーシャルの演出はしみじみとさせるまでには至っていない。牧師の妻で聖歌隊のリーダーというには巧すぎるホイットニーの歌唱シーンが、かえって人情話の味を薄めたような気もする。彼女の迫力ある唄声(友人役で出演のライオネル・リッチーとのデュエットも有り)を聴いていたら、段々とプロモーションビデオを観ている気分になった。
原題は【The Preacher's Wife】。元ネタは天使と牧師の妻との淡い恋心と、それによって生まれる牧師の嫉妬がギクシャクしていた夫婦の絆を再生させるというラブ・コメらしい(多分、未見)のだが、今作は人情話に重きを置いているようで、その辺が希薄に感じた。
1996年のアカデミー賞では、音楽賞(ハンス・ジマー)にノミネートされたそうです。
・友人役でライオネル・リッチーは出てきますが、デュエットはしてなくてピアノの伴奏をしてました。修正致します。(01.22)
母親に捨てられた為に遠くの町に里子に出される友達との別れを悲しむ幼い息子、不動産屋に追い立てを食らっている近隣の住民、誤認逮捕された保護観察中の少年、そんな人々の助けになってやれないと自分の力不足を嘆く牧師コートニー・B・ヴァンスのもとに、天使デンゼル・ワシントンが使わされ、牧師に迷惑がられながらも諸問題を解決し去っていくという、半世紀前のヘンリー・コスタ監督作「気まぐれ天使(1947)」をもとにした人情話だが、ペニー・マーシャルの演出はしみじみとさせるまでには至っていない。牧師の妻で聖歌隊のリーダーというには巧すぎるホイットニーの歌唱シーンが、かえって人情話の味を薄めたような気もする。彼女の迫力ある唄声
原題は【The Preacher's Wife】。元ネタは天使と牧師の妻との淡い恋心と、それによって生まれる牧師の嫉妬がギクシャクしていた夫婦の絆を再生させるというラブ・コメらしい(多分、未見)のだが、今作は人情話に重きを置いているようで、その辺が希薄に感じた。
1996年のアカデミー賞では、音楽賞(ハンス・ジマー)にノミネートされたそうです。
・お薦め度【★★=ホイットニーファンには、悪くはないけどネ】
・友人役でライオネル・リッチーは出てきますが、デュエットはしてなくてピアノの伴奏をしてました。修正致します。(01.22)
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●2007年10月にブログ名を「SCREEN」から「テアトル十瑠」に変えました。
●2021年8月にブログ名を「テアトル十瑠」から「テアトル十瑠 neo」に変えました。姉妹ブログ「つれづる十瑠」に綴っていた日々の雑感をこちらで継続することにしたからです。
●コメントは大歓迎。但し、記事に関係ないモノ、不適切と判断したモノは予告無しに削除させていただきます。
◆【著作権について】 当ブログにおける私の著作権の範囲はテキスト部分についてのみで、また他サイト等からの引用については原則< >で囲んでおります。
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●映画の紹介、感想、関連コラム、その他諸々綴っています。
●2007年10月にブログ名を「SCREEN」から「テアトル十瑠」に変えました。
●2021年8月にブログ名を「テアトル十瑠」から「テアトル十瑠 neo」に変えました。姉妹ブログ「つれづる十瑠」に綴っていた日々の雑感をこちらで継続することにしたからです。
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◆【管理人について】
HNの十瑠(ジュール)は、あるサイトに登録したペンネーム「鈴木十瑠」の名前部分をとったもの。由来は少年時代に沢山の愛読書を提供してくれたフランスの作家「ジュール・ヴェルヌ」を捩ったものです。
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バナー作りました。リンク用に御使用下さい。時々色が変わります。(2009.02.15)