様々な分野の一流といわれる達人の仕事の流儀を紹介するNHKの「プロフェッショナル」。先日の10日の夜の放送は取材対象が俳優、高倉健だった。偶然にTVをつけたら、珍しい彼のインタビュー映像が流れていたので最後まで観た。プライベートを殆ど世間にさらさない高倉健が、6年ぶりに出演した映画「あなたへ」の撮影風景を交えながら、インタビューに応じていた。
1931年2月16日、福岡県中間市生まれの御年81歳。
10日の夜の放送では、今回の映画で共演した大滝秀治とのシーン撮影後に、この6歳先輩の演技に感動して涙を流しているところから観た。
物語は、高倉扮する富山の刑務所の指導技官が亡くなった妻の遺言を実行しようと彼女の故郷の長崎県平戸市までの旅に出る話で、大滝は主人公が妻の遺言である故郷の海への散骨を行うのに協力してくれる漁師の役だった。
「久しぶりに、きれいな海ば見た」
その大滝の演技に老漁師の人生が透けて見えたのか、高倉はカメラが止まった後、思わず感動の涙を流してしまったようだ。そして、大滝の演技の域にまだまだ届いていない自分をも感じたらしい。
<ああいう芝居を目の当たりで見ただけで、この作品に出てよかったと思ってます。それぐらい強烈だった。うへえって思いましたよ。そういうことができる、俳優って言うのが商売なんですよね。(大滝さんに)負けたくないねえ、負けたくない。勝負しようとは思わないけど、なんとか追っかけたいと思いますよ。まだ何年かは働けるもんね。追っかけたいと思う。縁があって俳優を選んだんだからね。やっぱり出会う人でしょうね。どういう人に人生で出会うか、そこで決まるんじゃないですかね。やっぱりいい人に出会うと、いろいろなものをもらいますよね>(NHK番組webページより「以下同じ」)
元々は芸能プロダクションのマネージャーの仕事にありつこうと面接に行ったところ、偶然に同席していた撮影所のプロデューサーに俳優としてスカウトされたのが役者人生の始まりで、若い頃は<まともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、数多くの作品に出演し続けることがコンプレックスになっていた>とのこと。
理想の俳優はという問いに、ジャン・ギャバンと答えた。実人生は不幸だったけど、演技者のギャバンは好きだと言った。大声を張り上げたり、大仰な芝居もしないギャバンの演技。
<気持ちは映らないっていうけど、でもやっぱり映るんですよ。どこかでそういうのがあるんだよ>
<俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね>
私生活も含めての理想の俳優は、イヴ・モンタンだと言った。奥さんと添い遂げて見送った後、若い秘書と再婚した、そんなモンタンの人生が羨ましいらしい。
高校時代にESS部を自ら創設するほど英語が好きだった高倉は外国映画もよく観ているし、先日のモントリオール映画祭でも流暢な英語で挨拶をしていた。
<朝食はナッツのたっぷり入ったシリアルにヨーグルトをかけたものときめている。毎日同じ物を食べることで体のリズムを整える。そして、体型を維持するため、大好きな甘い物も我慢し、夕食まで食べ物はほとんど口にしない。ウオーキングも欠かさず行い、ウエストも体重も何十年も変わらないという。さらに、朝起きるとマウスピースをかみ、脳に刺激を与える>
台本にはお気に入りの写真や言葉を書いた紙を貼っているという。勿論、役の人物の心を造形するためのものだろう。
<会津八一から山本周五郎、山下達郎、そして無名の一般人の生き方まで、高倉の守備範囲は広い。「心を震えさせてくれる」と感じる物はなんでも、持ち歩くという>
今回の「プロフェッショナル」の高倉健特集は9月8日放送分と合わせて2回に分けて放送されたようで、僕が観たのは後編の半分辺りからだから全体の4分の1しか観ていない事になる。
9月13日の深夜に再放送があるらしいから録画しようと思う。
録画していた「プロフェッショナル」を観たら、結構初めの方から観ていたことに気付く。もう寝ようかと思ってたところでTVを付けたものだから、半分眠っていたのかもしれない。その割には内容はかなり覚えていたが。前編の放送が観たかったなぁ。
[09月14日 (Twitter on 十瑠にて)]
1931年2月16日、福岡県中間市生まれの御年81歳。
10日の夜の放送では、今回の映画で共演した大滝秀治とのシーン撮影後に、この6歳先輩の演技に感動して涙を流しているところから観た。
物語は、高倉扮する富山の刑務所の指導技官が亡くなった妻の遺言を実行しようと彼女の故郷の長崎県平戸市までの旅に出る話で、大滝は主人公が妻の遺言である故郷の海への散骨を行うのに協力してくれる漁師の役だった。
「久しぶりに、きれいな海ば見た」
その大滝の演技に老漁師の人生が透けて見えたのか、高倉はカメラが止まった後、思わず感動の涙を流してしまったようだ。そして、大滝の演技の域にまだまだ届いていない自分をも感じたらしい。
<ああいう芝居を目の当たりで見ただけで、この作品に出てよかったと思ってます。それぐらい強烈だった。うへえって思いましたよ。そういうことができる、俳優って言うのが商売なんですよね。(大滝さんに)負けたくないねえ、負けたくない。勝負しようとは思わないけど、なんとか追っかけたいと思いますよ。まだ何年かは働けるもんね。追っかけたいと思う。縁があって俳優を選んだんだからね。やっぱり出会う人でしょうね。どういう人に人生で出会うか、そこで決まるんじゃないですかね。やっぱりいい人に出会うと、いろいろなものをもらいますよね>(NHK番組webページより「以下同じ」)
元々は芸能プロダクションのマネージャーの仕事にありつこうと面接に行ったところ、偶然に同席していた撮影所のプロデューサーに俳優としてスカウトされたのが役者人生の始まりで、若い頃は<まともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、数多くの作品に出演し続けることがコンプレックスになっていた>とのこと。
理想の俳優はという問いに、ジャン・ギャバンと答えた。実人生は不幸だったけど、演技者のギャバンは好きだと言った。大声を張り上げたり、大仰な芝居もしないギャバンの演技。
<気持ちは映らないっていうけど、でもやっぱり映るんですよ。どこかでそういうのがあるんだよ>
<俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね>
私生活も含めての理想の俳優は、イヴ・モンタンだと言った。奥さんと添い遂げて見送った後、若い秘書と再婚した、そんなモンタンの人生が羨ましいらしい。
高校時代にESS部を自ら創設するほど英語が好きだった高倉は外国映画もよく観ているし、先日のモントリオール映画祭でも流暢な英語で挨拶をしていた。
<朝食はナッツのたっぷり入ったシリアルにヨーグルトをかけたものときめている。毎日同じ物を食べることで体のリズムを整える。そして、体型を維持するため、大好きな甘い物も我慢し、夕食まで食べ物はほとんど口にしない。ウオーキングも欠かさず行い、ウエストも体重も何十年も変わらないという。さらに、朝起きるとマウスピースをかみ、脳に刺激を与える>
台本にはお気に入りの写真や言葉を書いた紙を貼っているという。勿論、役の人物の心を造形するためのものだろう。
<会津八一から山本周五郎、山下達郎、そして無名の一般人の生き方まで、高倉の守備範囲は広い。「心を震えさせてくれる」と感じる物はなんでも、持ち歩くという>
今回の「プロフェッショナル」の高倉健特集は9月8日放送分と合わせて2回に分けて放送されたようで、僕が観たのは後編の半分辺りからだから全体の4分の1しか観ていない事になる。
9月13日の深夜に再放送があるらしいから録画しようと思う。
*
録画していた「プロフェッショナル」を観たら、結構初めの方から観ていたことに気付く。もう寝ようかと思ってたところでTVを付けたものだから、半分眠っていたのかもしれない。その割には内容はかなり覚えていたが。前編の放送が観たかったなぁ。
[09月14日 (Twitter on 十瑠にて)]
1981年4月、レッドフォードは初監督作品「普通の人々(1980)」でアカデミー監督賞を受賞する。
二人の息子と両親の一家の話というのは、彼の家族を思い起こさせるが、実際の母親はこの映画のような女性ではなく、いつも息子を信じて励ますような人だったらしい。残念なことに、レッドフォードが18歳のコロラド大学時代に急死し、母親に感謝の言葉をかけていなかったことが、生涯の心残りだと言っていた。
出演した映画は、政治的、社会的なものが多いレッドフォードだが、『初監督作品には、人間の行動や感情を描いたものがイイと思った』
司会のリプトンが、シドニー・ポラックがレッドフォードについて語った言葉を紹介した。
『レッドフォードはアメリカの矛盾の象徴だ。華やかに見えるが、実は複雑で暗さもある』
初めての監督業での苦労話も出てきた。
『演技には妨げになると、撮影用語等を覚えないようにしてきたが、監督をするとなるとコレが一苦労だった。撮影監督はレンズの種類やら、ズームの方法などを聞いてくるが、自分は用語を知らない。それで、終いには全てのシーンの絵コンテを描いて指示をすることになった』
メアリー・タイラー・ムーア(「普通の人々」の主演女優)の話も紹介されたが、役者に対しては細心の注意を払って自然な演技が出来るように配慮する監督だと言っていた。
『あの映画の出演は素晴らしい経験だったわ』
普通の撮影現場では、『よーい。ハイ!』といってカチンコが鳴るものだが、レッドフォード組はそんな雰囲気ではなかったようだ。
『機械的な撮影にはしたくない』
役者出身の監督らしい言葉であった。
「ナチュラル」で共演した、グレン・クローズの感謝の言葉も紹介された。
『マスターショットにとらわれず、全体の感じを掴め。自分で良いと思っても、客観的には評価されない場合もある。そんな時には黙って演技に集中すればいい』
そんなレッドフォードの助言が勉強になったと。
思えば、全体を考えながら演技をするのが彼の元々の姿勢だった。だから、どんなに尊敬する監督の作品に出ていても、いつかは自分で全てを作りたいという思いがあり、それが監督業へ向かわせたようだ。
「明日に向かって撃て!」のギャラで、彼はユタ州に土地を買う。自然を満喫できる環境を求めて買ったわけだが、やがてプロデュースにも手を広げるようになると、インディーズ系の映画人の苦労が分かるようになり、その土地で彼らの為に非営利で何かしたいと思うようになる。これがサンダンス・インスティテュートの始まりだ。
最初は0.8ヘクタールだった土地も、今では2000ヘクタールにまで大きくなった。土地は映画に因んでサンダンスと名付けられ、自身の製作会社もサンダンス・プロとし、今では若手映画人の登竜門として数々の名作をも生み出したサンダンス映画祭も開催するようになる。映画祭にはハリウッドからもバイヤーが沢山集まるそうだ。
因みに、この映画祭から発掘された映画人には、コーエン兄弟、ジム・ジャームッシュ、スティーブン・ソダーバーグ、クエンティン・タランティーノ、ロバート・ロドリゲス、クリストファー・ノーラン、ジョン・キャメロン・ミッチェル、カリン・クサマなどがいる。
去年NHK-BSで観た「セントラル・ステーション」、同じサレス監督の「モーター・サイクル・ダイアリーズ(2003)」もこの映画祭から産まれた秀作のはずだ。勿論、それ以外の著名な作品は数知れない。
サンダンス・インスティテュートでは、役者だけでなく、演出家、脚本家、その他映画製作に関わる様々な仕事を目指す人々の実習を手助けしている。既に名を成した監督や俳優などもボランティアとして指導に当たっていて、シドニー・ポラックの写真も出てきたし、アクターズ・スタジオの教授夫妻も紹介された。
そんな活動が認められたのだろう、2001年には、アカデミー賞で名誉賞を受賞した。
映画作家として個性的でカリスマ性を発揮した人は何人もいるが、レッドフォードのように社会的、経済的な影響を与えた人は極めて珍しいと思う。
<スポーツもの、政治もの、記者ものは当たらない>という、“ヒットを狙う連中の偏見”とも戦ってきたし、「リバー・ランズ・スルー・イット(1992)」では、原作者マクリーンから映画化権を得るために彼の元に3回も通った。「白銀のレーサー」の時には、題材に合わないからと華やかな宣伝を嫌い、結局地道に自分で売り込みに回ったりもした。それもこれも、自分の感性を大事にし、それが正しいと信じていたからだろう。
この番組恒例の10の質問から。
『大好きな音は?』
-『コオロギの鳴き声』
車で長距離の旅をする。夜になると道から外れた所で、昔の西部劇のように地べたで休む。夜空には星。聞こえるのはコオロギの鳴き声。そして、時にはアスファルト道路を走り去るトラックの音も聞こえる。そんな風景が懐かしいのだと言う。
『天国に着いた時に、なんと言って貰いたい?』
-『まだ、早いよ』
最新作は「大いなる陰謀」。レッドフォードは監督と主演。共演者はメリル・ストリープとトム・クルーズ。2008年春に公開だそうである。
二人の息子と両親の一家の話というのは、彼の家族を思い起こさせるが、実際の母親はこの映画のような女性ではなく、いつも息子を信じて励ますような人だったらしい。残念なことに、レッドフォードが18歳のコロラド大学時代に急死し、母親に感謝の言葉をかけていなかったことが、生涯の心残りだと言っていた。
出演した映画は、政治的、社会的なものが多いレッドフォードだが、『初監督作品には、人間の行動や感情を描いたものがイイと思った』
司会のリプトンが、シドニー・ポラックがレッドフォードについて語った言葉を紹介した。
『レッドフォードはアメリカの矛盾の象徴だ。華やかに見えるが、実は複雑で暗さもある』
初めての監督業での苦労話も出てきた。
『演技には妨げになると、撮影用語等を覚えないようにしてきたが、監督をするとなるとコレが一苦労だった。撮影監督はレンズの種類やら、ズームの方法などを聞いてくるが、自分は用語を知らない。それで、終いには全てのシーンの絵コンテを描いて指示をすることになった』
メアリー・タイラー・ムーア(「普通の人々」の主演女優)の話も紹介されたが、役者に対しては細心の注意を払って自然な演技が出来るように配慮する監督だと言っていた。
『あの映画の出演は素晴らしい経験だったわ』
普通の撮影現場では、『よーい。ハイ!』といってカチンコが鳴るものだが、レッドフォード組はそんな雰囲気ではなかったようだ。
『機械的な撮影にはしたくない』
役者出身の監督らしい言葉であった。
「ナチュラル」で共演した、グレン・クローズの感謝の言葉も紹介された。
『マスターショットにとらわれず、全体の感じを掴め。自分で良いと思っても、客観的には評価されない場合もある。そんな時には黙って演技に集中すればいい』
そんなレッドフォードの助言が勉強になったと。
思えば、全体を考えながら演技をするのが彼の元々の姿勢だった。だから、どんなに尊敬する監督の作品に出ていても、いつかは自分で全てを作りたいという思いがあり、それが監督業へ向かわせたようだ。
*
「明日に向かって撃て!」のギャラで、彼はユタ州に土地を買う。自然を満喫できる環境を求めて買ったわけだが、やがてプロデュースにも手を広げるようになると、インディーズ系の映画人の苦労が分かるようになり、その土地で彼らの為に非営利で何かしたいと思うようになる。これがサンダンス・インスティテュートの始まりだ。
最初は0.8ヘクタールだった土地も、今では2000ヘクタールにまで大きくなった。土地は映画に因んでサンダンスと名付けられ、自身の製作会社もサンダンス・プロとし、今では若手映画人の登竜門として数々の名作をも生み出したサンダンス映画祭も開催するようになる。映画祭にはハリウッドからもバイヤーが沢山集まるそうだ。
因みに、この映画祭から発掘された映画人には、コーエン兄弟、ジム・ジャームッシュ、スティーブン・ソダーバーグ、クエンティン・タランティーノ、ロバート・ロドリゲス、クリストファー・ノーラン、ジョン・キャメロン・ミッチェル、カリン・クサマなどがいる。
去年NHK-BSで観た「セントラル・ステーション」、同じサレス監督の「モーター・サイクル・ダイアリーズ(2003)」もこの映画祭から産まれた秀作のはずだ。勿論、それ以外の著名な作品は数知れない。
サンダンス・インスティテュートでは、役者だけでなく、演出家、脚本家、その他映画製作に関わる様々な仕事を目指す人々の実習を手助けしている。既に名を成した監督や俳優などもボランティアとして指導に当たっていて、シドニー・ポラックの写真も出てきたし、アクターズ・スタジオの教授夫妻も紹介された。
そんな活動が認められたのだろう、2001年には、アカデミー賞で名誉賞を受賞した。
映画作家として個性的でカリスマ性を発揮した人は何人もいるが、レッドフォードのように社会的、経済的な影響を与えた人は極めて珍しいと思う。
<スポーツもの、政治もの、記者ものは当たらない>という、“ヒットを狙う連中の偏見”とも戦ってきたし、「リバー・ランズ・スルー・イット(1992)」では、原作者マクリーンから映画化権を得るために彼の元に3回も通った。「白銀のレーサー」の時には、題材に合わないからと華やかな宣伝を嫌い、結局地道に自分で売り込みに回ったりもした。それもこれも、自分の感性を大事にし、それが正しいと信じていたからだろう。
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この番組恒例の10の質問から。
『大好きな音は?』
-『コオロギの鳴き声』
車で長距離の旅をする。夜になると道から外れた所で、昔の西部劇のように地べたで休む。夜空には星。聞こえるのはコオロギの鳴き声。そして、時にはアスファルト道路を走り去るトラックの音も聞こえる。そんな風景が懐かしいのだと言う。
『天国に着いた時に、なんと言って貰いたい?』
-『まだ、早いよ』
最新作は「大いなる陰謀」。レッドフォードは監督と主演。共演者はメリル・ストリープとトム・クルーズ。2008年春に公開だそうである。
レッドフォードを一躍大スターにしたのが69年の「明日に向って撃て!」である。
この映画に出演するについては、3人の恩人がいるとレッドフォードは言った。監督のジョージ・ロイ・ヒル、脚本のウィリアム・ゴールドマン、そしてポール・ニューマンだ。
最初、監督からはブッチ役にどうかと話がきたが、本を読んだレッドフォードはサンダンスがやりたいと言った。ポールの出演は決まっていて、映画会社は既に有名だった彼に釣り合う相手役を望んでいたので、レッドフォードの起用に反対したが、ゴールドマンも応援してくれて、その後ポールに会うと『一緒にやろう。』と言ってくれた。
映画の原題は「BUTCH CASSIDY AND THE SUNDANCE KID=ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」。実は、当初は「THE SUNDANCE KID AND BUTCH CASSIDY=サンダンスとブッチ」という予定だったが、既にスターだったポールがブッチ役になったので、入れ換えたという次第。
ロイ・ヒル監督とは気も合い、その後「スティング(1973)」、「華麗なるヒコーキ野郎(1975)」と出演する。
後者は、元空軍のパイロットだったロイ・ヒル監督が自分の夢を描いた作品で、撮影のエピソードで一番面白かったのは、主人公のウォルドペパーが飛んでいる複葉機の翼の上を歩くシーンで、一部スタントマンも使ったが、レッドフォード自身も高度1800mの上空で歩いた事。
子供の頃に兄とビルを登ったりして、“クライミングは一生の趣味”というくらいの彼だが、翼の上を歩いた時に操縦席を見るとパイロットが青ざめていたので、流石にその後は頭の中が真っ白になったと言った。それでも、翼の上からテキサスの大地を見下ろした時の感動は忘れていないようだった。
「スティング」は、インディーズ系の人間がレッドフォードに話を持ち込んだのが始まりだったとの事。新人の脚本家に演出も兼ねさせようとしていたが、レッドフォードはコレは熟練の監督に任せた方がいいとロイ・ヒル監督を紹介した。本が気に入った監督は、『ポールも誘ってみようじゃないか』。こうして、再びトリオの作品が実現したわけだ。ポールの役は当初の本にはなかったそうだ。
レッドフォードは自身の出演作品を観てないことも多く、このアカデミー賞受賞作品も完成品を観たのは数ヶ月前、レンタルビデオを家で孫と観たのが最初だと言っていた。封切時にはヨーロッパに行っていて、帰ってきた時には公開が終わっていたとの事。『娘にピザと映画を頼まれて、ビデオ屋で孫と見つけたんだ。』
『「スティング」観たかい?』
『いや。』
『お母さんは、何してるんだ!(笑)』
孫との交流をユーモアを交えながら語る、70歳前のレッドフォードでありました。
ポール・ニューマンとの関連で面白かったのは、ポールの50歳のバースデイ・プレゼントに廃車となったスポーツカーを送った話。当時、二人は近所に住んでいて、レッドフォードはカー・レースに夢中なポールが車の話ばかりするのにうんざりすることもあったらしい。
『それで、知り合いの車屋に頼んでポンコツのスポーツ・カーを探し、バースデイカードを添えてポールの庭に置いたんだ。カードには名前は書いておかなかった。』
『すると、しばらくして自宅に大きな木箱が届いてきて、開けると、中には金属の固まりが入っていた。ポールの仕業に違いない。で、今度はそれを更に庭の置物になるように圧縮して、もう一度送り返してやった。業者は、結構儲けたな。』
そして、『お互いに自分がやったとは言っていないんだ。』
(・・・続く)
この映画に出演するについては、3人の恩人がいるとレッドフォードは言った。監督のジョージ・ロイ・ヒル、脚本のウィリアム・ゴールドマン、そしてポール・ニューマンだ。
最初、監督からはブッチ役にどうかと話がきたが、本を読んだレッドフォードはサンダンスがやりたいと言った。ポールの出演は決まっていて、映画会社は既に有名だった彼に釣り合う相手役を望んでいたので、レッドフォードの起用に反対したが、ゴールドマンも応援してくれて、その後ポールに会うと『一緒にやろう。』と言ってくれた。
映画の原題は「BUTCH CASSIDY AND THE SUNDANCE KID=ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」。実は、当初は「THE SUNDANCE KID AND BUTCH CASSIDY=サンダンスとブッチ」という予定だったが、既にスターだったポールがブッチ役になったので、入れ換えたという次第。
ロイ・ヒル監督とは気も合い、その後「スティング(1973)」、「華麗なるヒコーキ野郎(1975)」と出演する。
後者は、元空軍のパイロットだったロイ・ヒル監督が自分の夢を描いた作品で、撮影のエピソードで一番面白かったのは、主人公のウォルドペパーが飛んでいる複葉機の翼の上を歩くシーンで、一部スタントマンも使ったが、レッドフォード自身も高度1800mの上空で歩いた事。
子供の頃に兄とビルを登ったりして、“クライミングは一生の趣味”というくらいの彼だが、翼の上を歩いた時に操縦席を見るとパイロットが青ざめていたので、流石にその後は頭の中が真っ白になったと言った。それでも、翼の上からテキサスの大地を見下ろした時の感動は忘れていないようだった。
「スティング」は、インディーズ系の人間がレッドフォードに話を持ち込んだのが始まりだったとの事。新人の脚本家に演出も兼ねさせようとしていたが、レッドフォードはコレは熟練の監督に任せた方がいいとロイ・ヒル監督を紹介した。本が気に入った監督は、『ポールも誘ってみようじゃないか』。こうして、再びトリオの作品が実現したわけだ。ポールの役は当初の本にはなかったそうだ。
レッドフォードは自身の出演作品を観てないことも多く、このアカデミー賞受賞作品も完成品を観たのは数ヶ月前、レンタルビデオを家で孫と観たのが最初だと言っていた。封切時にはヨーロッパに行っていて、帰ってきた時には公開が終わっていたとの事。『娘にピザと映画を頼まれて、ビデオ屋で孫と見つけたんだ。』
『「スティング」観たかい?』
『いや。』
『お母さんは、何してるんだ!(笑)』
孫との交流をユーモアを交えながら語る、70歳前のレッドフォードでありました。
ポール・ニューマンとの関連で面白かったのは、ポールの50歳のバースデイ・プレゼントに廃車となったスポーツカーを送った話。当時、二人は近所に住んでいて、レッドフォードはカー・レースに夢中なポールが車の話ばかりするのにうんざりすることもあったらしい。
『それで、知り合いの車屋に頼んでポンコツのスポーツ・カーを探し、バースデイカードを添えてポールの庭に置いたんだ。カードには名前は書いておかなかった。』
『すると、しばらくして自宅に大きな木箱が届いてきて、開けると、中には金属の固まりが入っていた。ポールの仕業に違いない。で、今度はそれを更に庭の置物になるように圧縮して、もう一度送り返してやった。業者は、結構儲けたな。』
そして、『お互いに自分がやったとは言っていないんだ。』
(・・・続く)
1936年(37年の説もあり)8月生まれのレッドフォードと、1937年8月生まれのダスティン・ホフマン。共にロサンゼルスの出身。
先日、久しぶりにアクターズ・スタジオ・インタビューがあり、2005年に収録された二人の前編・後編がそれぞれ1本に纏められて、二日に渉って再放送された。どちらも見逃していたので、しっかりと録画してワクワクしながら見た。多感な時期に彼らの映画を沢山見たので、どちらも思い出深い俳優だ。
特に、レッドフォードには役者としてより人間としての魅力を多く感じていたし、演技以外の映像もほとんど見たことがなかったので、非常に興味深いインタビューだった。
映画では、どれを見ても“レッドフォードだ”という感じがするが、役柄の選択には毎回こだわりがあったらしいのは、大昔の雑誌のインタビュー記事で知っていた。
出演作品を選ぶときの決め手は? という質問に、こう答えた。
「物語」、「役柄」、「葛藤」・・・
シドニー・ポラックは最も出演作品が多い監督で、とても親しいと言っていたが、ポラックから「追憶(1973)」のオファーがあった時には、最初は断ったらしい。
『二枚目だけの役はイヤだ。弱点のある役がいい。
本人も見た目で評価されている事に気付いていて、心の中に不安を抱えている。
自分は完璧な人間ではない。ごく普通に生きている人間なんだと。』
「追憶」の脚本も、幾度かの変更があったらしい。
葛藤し、成長する人物。ドラマチックな重圧に耐え、悩みながら状況を乗りきっていく。そうした経験を通して、何かに気付く。そんな役柄に惹かれるようだ。
「白銀のレーサー(1969)」、「候補者ビル・マッケイ(1972)」、「大いなる勇者(1972)」、「華麗なるギャツビー(1974)」、「コンドル(1975)」、「出逢い(1979)」、「ブルベイカー(1980)」・・・。
仕事や環境は違っていても、確かに彼の演じる人物には共通する何かがあった。彼の言を借りれば、“葛藤”ということだろう。一見何でもこなしそうな美青年なのに、どこか屈折したところがあって、しかしその影がトニ・パキのように陰に籠もってない。あの“ギャツビー”のように、どんなに苦しい環境の中でも、又それがどんなに遙か先であっても、希望の光を求め続ける男なのだ。
本名、チャールズ・ロバート・レッドフォード・ジュニア。
両親は再婚で、義理の兄がいたが、年が近く仲は良かったようだ。どちらかと言えば貧しい家で、楽しみは週末の映画館と7歳から通った図書館。兄とは色々な悪戯もして、二人してビルの外壁をよじ登り、上の方の電飾の球を外した事などを話していた。
学校も嫌いで、早くロサンゼルスから出ていこうと思い、得意だった野球の奨学金を得てコロラド大学に入る。専攻は美術だったが、管理的な授業に嫌気がさし、大学の近くのパブに入り浸り、1年半で退学となる。
画家を目指してヨーロッパに渡り、スペイン、フランス、フィレンツェなどの学校で学ぶ。その放浪の旅で知り合った女性と結婚をし、アメリカに帰ることにする。帰米費用は個展で稼いだ75ドルだった。
ニューヨークに着くと、街の様子が気に入り居着く。画家以外の仕事には興味がなかったが、人に聞かれた時には『舞台美術をやりたい。』と答えていた。それは真っ当な職業に思えたからだ。
それならば、演劇を学んだ方がいいと言われ、教えられるまま演劇学校に通いだしたのが、役者になるきっかけになったそうだ。演技にも本当は興味がなく、偶然授業で組むことになった青年の演技に腹がたち、そいつを放り投げて学校を辞めようとした時に、『演技を辞めるな。』と引き留めた先生の言葉がなければ、今の自分はなかったかも知れないと言っていた。
(・・・続く)
先日、久しぶりにアクターズ・スタジオ・インタビューがあり、2005年に収録された二人の前編・後編がそれぞれ1本に纏められて、二日に渉って再放送された。どちらも見逃していたので、しっかりと録画してワクワクしながら見た。多感な時期に彼らの映画を沢山見たので、どちらも思い出深い俳優だ。
特に、レッドフォードには役者としてより人間としての魅力を多く感じていたし、演技以外の映像もほとんど見たことがなかったので、非常に興味深いインタビューだった。
映画では、どれを見ても“レッドフォードだ”という感じがするが、役柄の選択には毎回こだわりがあったらしいのは、大昔の雑誌のインタビュー記事で知っていた。
出演作品を選ぶときの決め手は? という質問に、こう答えた。
「物語」、「役柄」、「葛藤」・・・
シドニー・ポラックは最も出演作品が多い監督で、とても親しいと言っていたが、ポラックから「追憶(1973)」のオファーがあった時には、最初は断ったらしい。
『二枚目だけの役はイヤだ。弱点のある役がいい。
本人も見た目で評価されている事に気付いていて、心の中に不安を抱えている。
自分は完璧な人間ではない。ごく普通に生きている人間なんだと。』
「追憶」の脚本も、幾度かの変更があったらしい。
葛藤し、成長する人物。ドラマチックな重圧に耐え、悩みながら状況を乗りきっていく。そうした経験を通して、何かに気付く。そんな役柄に惹かれるようだ。
「白銀のレーサー(1969)」、「候補者ビル・マッケイ(1972)」、「大いなる勇者(1972)」、「華麗なるギャツビー(1974)」、「コンドル(1975)」、「出逢い(1979)」、「ブルベイカー(1980)」・・・。
仕事や環境は違っていても、確かに彼の演じる人物には共通する何かがあった。彼の言を借りれば、“葛藤”ということだろう。一見何でもこなしそうな美青年なのに、どこか屈折したところがあって、しかしその影がトニ・パキのように陰に籠もってない。あの“ギャツビー”のように、どんなに苦しい環境の中でも、又それがどんなに遙か先であっても、希望の光を求め続ける男なのだ。
*
本名、チャールズ・ロバート・レッドフォード・ジュニア。
両親は再婚で、義理の兄がいたが、年が近く仲は良かったようだ。どちらかと言えば貧しい家で、楽しみは週末の映画館と7歳から通った図書館。兄とは色々な悪戯もして、二人してビルの外壁をよじ登り、上の方の電飾の球を外した事などを話していた。
学校も嫌いで、早くロサンゼルスから出ていこうと思い、得意だった野球の奨学金を得てコロラド大学に入る。専攻は美術だったが、管理的な授業に嫌気がさし、大学の近くのパブに入り浸り、1年半で退学となる。
画家を目指してヨーロッパに渡り、スペイン、フランス、フィレンツェなどの学校で学ぶ。その放浪の旅で知り合った女性と結婚をし、アメリカに帰ることにする。帰米費用は個展で稼いだ75ドルだった。
ニューヨークに着くと、街の様子が気に入り居着く。画家以外の仕事には興味がなかったが、人に聞かれた時には『舞台美術をやりたい。』と答えていた。それは真っ当な職業に思えたからだ。
それならば、演劇を学んだ方がいいと言われ、教えられるまま演劇学校に通いだしたのが、役者になるきっかけになったそうだ。演技にも本当は興味がなく、偶然授業で組むことになった青年の演技に腹がたち、そいつを放り投げて学校を辞めようとした時に、『演技を辞めるな。』と引き留めた先生の言葉がなければ、今の自分はなかったかも知れないと言っていた。
(・・・続く)
マックィーンが50歳で亡くなったのが1980年11月7日。もうすぐ、26年が経とうとしている。生きていれば76歳。想像しようとしたら、やはり76歳の彼は浮かんでこなかった。しかし、50歳は早すぎる。せめて60歳まではスクリーンで活躍して欲しかった。で、60で俳優は引退。後は自然を相手に悠々自適。それがマックィーンには似合っていたと思う。
死因は肺ガンとのことだった。
アメリカは砂漠で核実験をやっていたから、残存放射能の多い砂漠でのロケが多かった西部劇スターはガンになる人が多いという噂を聞いていた。彼もそのせいだと思っていたら、去年、<マックィーンの死亡原因はアスベストが原因の中皮腫だった。>とニュースが流れた。
<スティーブ・マックィーン(Steve McQueen/本名:Terrence Steven McQueen)、1930年3月24日 ~ 1980年11月7日。
インディアナ州インディアナポリス市出身。生後6ヶ月の頃に両親が離婚。母親の再婚と共に各地を転々と移るなど環境に恵まれず、14歳の頃、カリフォルニア州立少年院に入れられる。1年半後に出所し、17歳で海兵隊へ入隊。除隊後はバーテンダーやタクシードライバー、用心棒などで生計を立てる。
1951年、ガールフレンドの勧めで俳優の道を選び、ネイバーフッド・プレイハウスに入学。アクターズ・スタジオを経てブロードウェイにデビューする。1956年「傷だらけの栄光」でポール・ニューマン扮するロッキーの悪友役(出演時間は合計して5分程)で映画デビュー。1958年にテレビ出演した「拳銃無宿(Wanted Dead or Alive)」のヒットにより一躍有名になる。
その後、「荒野の七人」、「大脱走」、「華麗なる賭け」、「ブリット」など数々の映画に出演。1980年、実在の賞金稼ぎをモデルにした「ハンター」の出演を最後に体調を崩し、アスベストが原因の中皮腫が発症しているのが見つかり、余命数ヶ月を宣告された後亡くなった。
海兵隊で乗務した戦艦の船室の内装に多用されたり、趣味のレースで当時使われたアスベスト製の耐火服・耐熱フェイスマスクから長期にわたりアスベスト繊維を吸引したのが原因ではないかといわれている。>(ウィキペディア(Wikipedia)より)
3人目の奥さんバーバラ・ミンディ(80年結婚)は知らないが、56年に結婚したニール・アダムスと73年に再婚したアリ・マッグローは外見は似たタイプだった。やせ形、小顔の黒髪の女性といったところか。3度目の結婚をした年に亡くなったんですな。
職歴に“用心棒”って凄いなぁ・・・!
知らないうちにこのブログでもマックィーンの作品はかなり紹介している。
古い方からいくと「傷だらけの栄光」、「荒野の七人」、「ブリット」、「華麗なる賭け」、「栄光のル・マン」、「タワーリング・インフェルノ」。
その他の出演作で観ているのは、「突撃隊(1961)」、「大脱走(1963)」、「シンシナティ・キッド(1965)」、「砲艦サンパブロ(1966)」、「ジュニア・ボナー(1972)」、「ゲッタウェイ(1972)」、「パピヨン(1973)」。
我ながら、結構観てます。
寡黙な男の役が多く、どれも似たような印象があるが、同じく寡黙な男を演じることが多かったクリント・イーストウッドと比べると演じた人物像の巾は広い。イーストウッドのトーマス・クラウンは想像しにくいもんね。
好きな役は、「大脱走」のヒルツ。手作り酒に酔っぱらって仲間とはしゃいだり、気弱な捕虜仲間の死に心を痛めることもあるが、反骨精神は旺盛で、何度捕まっても脱走を繰り返し、その度に独房で一人キャッチボールをする。仲間からボールとグローブを受け取り独房に入っていくラストが爽快だった。
60年代、70年代と映画雑誌の人気投票ではアラン・ドロンとトップを争っていた。ドロンには女性票が多く、マックィーンには男性票が多かったと思う。
未見の作品で特に観たいのは、69年の「華麗なる週末」。
「華麗なる賭け」の翌年で、頭に“華麗なる”と付いているが、これは配給会社の策略で、中身は20世紀初頭のアメリカの田舎町が舞台の話で、マックィーンもぼさぼさ頭のユーモラスな男の役だったように記憶している。ウィリアム・フォークナーの原作があり、監督は「黄昏(1981)」でオスカーにノミネートされたこともあるマーク・ライデル。TVの深夜放送でちょっとだけ観たことがあるが、通しては観てない。「ペーパー・ムーン」よりももっと古いクラシックカーが出てくるロード・ムーヴィーのようです。
イプセンの原作、アーサー・ミラーの戯曲を映画化した「民衆の敵(1978)」も、異色という点でも是非みたい作品だ。
<ノルウエーで“赤ひげ”のように慕われていた人格者の医師が、町の人々に背かれ、村八分となる・・・(「allcinema-online」の紹介記事より)>というような内容で、まさしく顔面一杯の髭面のマックィーンのスチール写真が記憶にある。シリアスな社会派ドラマで、マックィーンは製作も兼ねるほどの熱の入れようだったらしいが、商業的に不成功だったことは想像に難くない。
遺作となった「ハンター(1980)」。今年だったか去年だったか、NHK-BSで深夜に放送されたが、録画出来なかった。残念!
その他、「マンハッタン物語(1963)」、「ハイウェイ(1964)」というマリガン監督&パクラ製作コンビの作品も気になる。
「マンハッタン」では、ミュージシャンのマックィーンとナタリー・ウッドとの恋愛の駆け引きがユーモラスに描かれ、後者もマックィーンは歌手志望という元犯罪者の役だが、こちらはリー・レミックとの別れが描かれる悲劇らしい。
尚、「ハイウェイ」は「アラバマ物語」の脚本を書いたホートン・フートの原作・脚本。
「ネバダ・スミス(1966)」(ヘンリー・ハサウェイ監督)、「雨の中の兵隊(1963)」(ラルフ・ネルソン監督)も見逃しているなぁ。
「allcinema-online」によると、父親は飛行機の曲乗り師で、生後6ヶ月での両親の離婚は父親の蒸発によるものらしい。そして、<彼の遺灰は太平洋にまかれた。>とのことだった。
(生年月日:1902年7月1日/フランス:ミュルーズ出身/1981年7月27日没/William Wyler)
皆様、明けましておめでとうございます。
昨年2月に開設以来、沢山のコメントやTBを頂戴し、誠にありがとうございました。今年も拙い文章ではございますが、映画について語らせていただきますので、宜しくお願いいたします。
さて、今年最初の記事は、最も敬愛する映画監督、ウィリアム・ワイラーの思い出の作品について書いてみます。
実は先日の大晦日に、近くのレンタル店兼書店で500円DVDが売られていまして、4本買いました。「嵐が丘(1939)」「ミニヴァー夫人(1942)」「我等の生涯の最良の年(1946)」「三人の妻への手紙(1949)」。最後のマンキウィッツ作品以外は全てワイラー映画です。
好きなんですよ、ホントに。但し、この三作品の中で観たのは「嵐が丘」だけ、しかもTVの鑑賞でした。売られていた500円DVDにはワイラー作品はこの三つしか無かったのですが、“ミニヴァー”も“我等の・・”も監督賞受賞作品でしたから迷わずに買いました。
ワイラー作品は10本ほど観ていますが、順番は分からなくなっているので、製作年度の古いものから書いていきたいと思います。
「嵐ケ丘」。エミリー・ブロンテ原作の有名な古典文学の映画化で、NHKの字幕放送で大昔に観ました。主演はローレンス・オリヴィエとマール・オベロン。旅人が嵐の中、辿り着いたお城で、怖そうな主人(オリヴィエ)の昔話を執事から聞くという設定で始まったと思います。モノクロ映画。【原題:WUTHERING HEIGHTS】。
内容は忘れてしまいました。原作も読んでいないので、これ以上の説明は出来ません。ただ、映画としては面白かったという印象は残っており、故に今回DVDを買ってしまいました。楽しみにしております。
「探偵物語(1951)」、「ローマの休日(1953)」、「必死の逃亡者(1955)」、「大いなる西部(1958)」、「噂の二人(1961)」、「コレクター(1965)」、「おしゃれ泥棒(1966)」。この辺は全て日曜洋画劇場での鑑賞だと記憶しております。
「探偵物語」。タイトルは“探偵”となっていますが、主演のカーク・ダグラスが扮したのはニューヨーク市警の刑事で、元々はシドニー・キングスレーという人の舞台劇だそうです。これもストーリーは忘れていますが、ダグラスが強烈な鬼刑事を演じていて、奥さん(エリノア・パーカー)との葛藤が絡む話だったと記憶しております。これも面白かったという印象だけ残っている。
ハッキリ申しましょう。駄作というものがほとんどないと言われているワイラー作品の内、4分の1程度の作品をTVの吹き替え版で観ている訳ですが、それらは全てハズレはなくてどれも面白かったです。あらすじでは紹介できない細かい登場人物の心理描写がどの作品にも生きている、それがワイラー映画なのです。
「ローマの休日」と「おしゃれ泥棒」については、別途紹介済みですね。
「必死の逃亡者」。実話を元にした舞台劇の映画化で、ハンフリー・ボガードをリーダーとした三人の脱獄囚が普通の民家に忍び込み、仲間とのコネクションがとれるまで居座るという話。一家はフレドリック・マーチが父親役で、家族は奥さんと娘と息子がいる。一家は誰かが人質になっているので下手な動きが出来ない。通常通りに会社や学校に行かされ、近隣や同僚に気付かれないようにするシーンがヒヤヒヤする。乱暴な大男がいて、尋ねてきた女性を撃ち殺したりする。
ボガードが完全な悪役だが、抜け目のない男なので、心理的なサスペンスが盛り上がる作品です。
「大いなる西部」は3時間近い西部劇の大作で、オールスター映画の一つでもある。出演者は、グレゴリー・ペック、チャールトン・ヘストン、ジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、バール・アイヴス、チャールズ・ビックフォード、チャック・コナーズなど。
ビックフォードとアイヴスの両オヤジの確執があって、家同士のいがみ合いにまでなっている。原因は水の領有権の争いで、板挟みになっている土地の所有者がジーン・シモンズだ。
牧場を経営しているビックフォードの娘がベイカーで、東部からやってくる彼女の婚約者がG・ペック。ペックは船乗りという設定。この牧場の牧童頭ヘストンはベイカーが好きで横恋慕する。また、アイヴスの息子コナーズはシモンズをなんとかものにしようとしている。
東部からやって来た新しい文化の象徴ペックは、西部の良識をシモンズの中に見出し、ベイカーの言動に失望する。古い西部の象徴である両オヤジはラストでは、子分や子ども達を巻き込んだ決闘騒ぎを起こすが、片方のオヤジの死(ン?両方?)により確執は消滅するというお話。
ペックとヘストンの夜通しの殴り合いが、ミドル・ショット、ロング・ショット織り交ぜて描かれ印象深いシーンでした。
「噂の二人」は、ワイラー自身が39年に作った「この三人」のリメイクで、主演はオードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーン。リリアン・へルマンの舞台劇の映画化で、小学校の女性教師二人が同性愛ではないかという噂を一人の女生徒がふりまき、悲劇をもたらすという話。
レズ疑惑の表現は前作では曖昧なものだったらしく、同じ本でありながら、時代が表現を変化させた例でしょう。
「コレクター」。昆虫のコレクター(テレンス・スタンプ)が、女性のコレクションを始めるというサイコ・サスペンス。中盤では、監禁された女性(サマンサ・エッガー)とコレクターとの心理的な駆け引きがスリリングで面白い。次の獲物を探しているというラストシーンが恐ろしかった。
現実の日本でも同種の事件が色々発生しましたが、一番戦慄を覚えたのは新潟柏崎の事件でしょうか。
「友情ある説得(1956)」は、日曜洋画劇場ではなくて深夜の映画劇場で観た映画です。
南北戦争の最中、平和主義のクェーカー教徒一家の苦悩を描いた作品。父親役がゲーリー・クーパーで母親がドロシー・マクガイア。出征する長男がアンソニー・パーキンスで、負傷した彼を父親クーパーが助けに行くが、息子と同じく父親も敵との闘いに悩むという話。しかしながら悲劇的なムードはなく、戦闘シーンもほとんど無かったと思う。クーパー家を取り巻く牧歌的な描写の前半が、後半のアンチ戦争というメッセージを浮かび上がらせる。
ワイラー初めてのカラー作品とのこと。1回切りしか観ていないが、とても好きになった作品でした。
上映時間4時間もさることながら、アカデミー賞11部門受賞というのも凄い「ベン・ハー(1959)」は、ローマ帝国時代が舞台の歴史劇。説明は不要ですよね。
これは、実際に全部観たのか怪しい映画で、TVで流れる度にちょこちょこと観ていて、戦車のシーンは何回観ても凄いのですが、全体としての印象が残ってない映画です。機会があれば、是非とも通してノーカットで見直したい作品です。
以上が私の観たワイラー作品です。
「探偵物語(1951)」から「おしゃれ泥棒(1966)」までほとんど観ているんですが、途中に一作だけ、「黄昏(1951)」を観ていません。ローレンスオリヴィエとジェニファー・ジョーンズ主演の社会派メロドラマとのことで、あまりに地味で暗いテーマのせいかTV放送を見かけない作品です。セオドア・ドライサー原作の見応え充分なドラマとのことなんですがねぇ・・・。
小道具係に配役係、編集助手に助監督など下積みを重ねて監督になったワイラーは、黒澤ら名匠といわれる映画人と同じく、撮影では妥協を許さぬ「リテイク・メン」だったらしい。
アカデミー監督賞にノミネートされること12回。受賞はキャプラ等と並ぶ3回。ノミネートも受賞も「探偵物語」以降よりも以前の方が多い。私の知っているワイラー映画は、まだまだ一部にしかすぎないという事ですな。
・ワイラー監督のフィルモグラフィーはこちら。
皆様、明けましておめでとうございます。
昨年2月に開設以来、沢山のコメントやTBを頂戴し、誠にありがとうございました。今年も拙い文章ではございますが、映画について語らせていただきますので、宜しくお願いいたします。
さて、今年最初の記事は、最も敬愛する映画監督、ウィリアム・ワイラーの思い出の作品について書いてみます。
実は先日の大晦日に、近くのレンタル店兼書店で500円DVDが売られていまして、4本買いました。「嵐が丘(1939)」「ミニヴァー夫人(1942)」「我等の生涯の最良の年(1946)」「三人の妻への手紙(1949)」。最後のマンキウィッツ作品以外は全てワイラー映画です。
好きなんですよ、ホントに。但し、この三作品の中で観たのは「嵐が丘」だけ、しかもTVの鑑賞でした。売られていた500円DVDにはワイラー作品はこの三つしか無かったのですが、“ミニヴァー”も“我等の・・”も監督賞受賞作品でしたから迷わずに買いました。
ワイラー作品は10本ほど観ていますが、順番は分からなくなっているので、製作年度の古いものから書いていきたいと思います。
「嵐ケ丘」。エミリー・ブロンテ原作の有名な古典文学の映画化で、NHKの字幕放送で大昔に観ました。主演はローレンス・オリヴィエとマール・オベロン。旅人が嵐の中、辿り着いたお城で、怖そうな主人(オリヴィエ)の昔話を執事から聞くという設定で始まったと思います。モノクロ映画。【原題:WUTHERING HEIGHTS】。
内容は忘れてしまいました。原作も読んでいないので、これ以上の説明は出来ません。ただ、映画としては面白かったという印象は残っており、故に今回DVDを買ってしまいました。楽しみにしております。
「探偵物語(1951)」、「ローマの休日(1953)」、「必死の逃亡者(1955)」、「大いなる西部(1958)」、「噂の二人(1961)」、「コレクター(1965)」、「おしゃれ泥棒(1966)」。この辺は全て日曜洋画劇場での鑑賞だと記憶しております。
「探偵物語」。タイトルは“探偵”となっていますが、主演のカーク・ダグラスが扮したのはニューヨーク市警の刑事で、元々はシドニー・キングスレーという人の舞台劇だそうです。これもストーリーは忘れていますが、ダグラスが強烈な鬼刑事を演じていて、奥さん(エリノア・パーカー)との葛藤が絡む話だったと記憶しております。これも面白かったという印象だけ残っている。
ハッキリ申しましょう。駄作というものがほとんどないと言われているワイラー作品の内、4分の1程度の作品をTVの吹き替え版で観ている訳ですが、それらは全てハズレはなくてどれも面白かったです。あらすじでは紹介できない細かい登場人物の心理描写がどの作品にも生きている、それがワイラー映画なのです。
「ローマの休日」と「おしゃれ泥棒」については、別途紹介済みですね。
「必死の逃亡者」。実話を元にした舞台劇の映画化で、ハンフリー・ボガードをリーダーとした三人の脱獄囚が普通の民家に忍び込み、仲間とのコネクションがとれるまで居座るという話。一家はフレドリック・マーチが父親役で、家族は奥さんと娘と息子がいる。一家は誰かが人質になっているので下手な動きが出来ない。通常通りに会社や学校に行かされ、近隣や同僚に気付かれないようにするシーンがヒヤヒヤする。乱暴な大男がいて、尋ねてきた女性を撃ち殺したりする。
ボガードが完全な悪役だが、抜け目のない男なので、心理的なサスペンスが盛り上がる作品です。
「大いなる西部」は3時間近い西部劇の大作で、オールスター映画の一つでもある。出演者は、グレゴリー・ペック、チャールトン・ヘストン、ジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、バール・アイヴス、チャールズ・ビックフォード、チャック・コナーズなど。
ビックフォードとアイヴスの両オヤジの確執があって、家同士のいがみ合いにまでなっている。原因は水の領有権の争いで、板挟みになっている土地の所有者がジーン・シモンズだ。
牧場を経営しているビックフォードの娘がベイカーで、東部からやってくる彼女の婚約者がG・ペック。ペックは船乗りという設定。この牧場の牧童頭ヘストンはベイカーが好きで横恋慕する。また、アイヴスの息子コナーズはシモンズをなんとかものにしようとしている。
東部からやって来た新しい文化の象徴ペックは、西部の良識をシモンズの中に見出し、ベイカーの言動に失望する。古い西部の象徴である両オヤジはラストでは、子分や子ども達を巻き込んだ決闘騒ぎを起こすが、片方のオヤジの死(ン?両方?)により確執は消滅するというお話。
ペックとヘストンの夜通しの殴り合いが、ミドル・ショット、ロング・ショット織り交ぜて描かれ印象深いシーンでした。
「噂の二人」は、ワイラー自身が39年に作った「この三人」のリメイクで、主演はオードリー・ヘプバーンとシャーリー・マクレーン。リリアン・へルマンの舞台劇の映画化で、小学校の女性教師二人が同性愛ではないかという噂を一人の女生徒がふりまき、悲劇をもたらすという話。
レズ疑惑の表現は前作では曖昧なものだったらしく、同じ本でありながら、時代が表現を変化させた例でしょう。
「コレクター」。昆虫のコレクター(テレンス・スタンプ)が、女性のコレクションを始めるというサイコ・サスペンス。中盤では、監禁された女性(サマンサ・エッガー)とコレクターとの心理的な駆け引きがスリリングで面白い。次の獲物を探しているというラストシーンが恐ろしかった。
現実の日本でも同種の事件が色々発生しましたが、一番戦慄を覚えたのは新潟柏崎の事件でしょうか。
「友情ある説得(1956)」は、日曜洋画劇場ではなくて深夜の映画劇場で観た映画です。
南北戦争の最中、平和主義のクェーカー教徒一家の苦悩を描いた作品。父親役がゲーリー・クーパーで母親がドロシー・マクガイア。出征する長男がアンソニー・パーキンスで、負傷した彼を父親クーパーが助けに行くが、息子と同じく父親も敵との闘いに悩むという話。しかしながら悲劇的なムードはなく、戦闘シーンもほとんど無かったと思う。クーパー家を取り巻く牧歌的な描写の前半が、後半のアンチ戦争というメッセージを浮かび上がらせる。
ワイラー初めてのカラー作品とのこと。1回切りしか観ていないが、とても好きになった作品でした。
上映時間4時間もさることながら、アカデミー賞11部門受賞というのも凄い「ベン・ハー(1959)」は、ローマ帝国時代が舞台の歴史劇。説明は不要ですよね。
これは、実際に全部観たのか怪しい映画で、TVで流れる度にちょこちょこと観ていて、戦車のシーンは何回観ても凄いのですが、全体としての印象が残ってない映画です。機会があれば、是非とも通してノーカットで見直したい作品です。
以上が私の観たワイラー作品です。
「探偵物語(1951)」から「おしゃれ泥棒(1966)」までほとんど観ているんですが、途中に一作だけ、「黄昏(1951)」を観ていません。ローレンスオリヴィエとジェニファー・ジョーンズ主演の社会派メロドラマとのことで、あまりに地味で暗いテーマのせいかTV放送を見かけない作品です。セオドア・ドライサー原作の見応え充分なドラマとのことなんですがねぇ・・・。
小道具係に配役係、編集助手に助監督など下積みを重ねて監督になったワイラーは、黒澤ら名匠といわれる映画人と同じく、撮影では妥協を許さぬ「リテイク・メン」だったらしい。
アカデミー監督賞にノミネートされること12回。受賞はキャプラ等と並ぶ3回。ノミネートも受賞も「探偵物語」以降よりも以前の方が多い。私の知っているワイラー映画は、まだまだ一部にしかすぎないという事ですな。
・ワイラー監督のフィルモグラフィーはこちら。
リンゼイ・ワグナーという女優をご存じでしょうか?
かつて「バイオニック・ジェミー(1976~1978)」というTV番組で人気者になった、最近の人でいえばメグ・ライアン似の女優。タイトルに“地上最強の美女!”という前置きも付いていて、なにやらスーパー・ウーマンのようですが、実は私はこれは見ていなくて、この前の映画でのデビューを見ていたんですよね。
1972年の「ふたり」というのがソレ。ロバート・ワイズ監督で、共演がピーター・フォンダ。
ベトナム戦争での脱走兵がピーターで、逃亡生活に疲れた彼がアフリカ、モロッコの米国大使館に自首する。そして、軍法会議を受けるためにモロッコからパリへ向かう旅の途中でリンゼイと出会い、束の間の恋に身を焼くという話だったと思う。
リンジーはファッションモデルの役で、本人も元モデルというふれ込みだった。
さて、この記事のタイトルの“アレ”というのは何かというと、いわゆるペチャパイで連想する女優ということです。何かのTV番組で巨乳だとか何とかの話が流れていて、ふと思い出したわけです。
オードリー・ヘプバーン、ミア・ファロー、キャサリン・ロス、キャンディス・バーゲン等々、貧乳とおぼしき女優は数々おれど、真っ先に「ふたり」のリンジーを思い出しました。
パリのホテルでムーディーなベッド・シーンがあったと思うんですが、なんせ、相手がこれまた胸板の薄いピーターですので、格別印象に残ったんだと思います。「恋におちたシェイクスピア」のグウィネスのように大胆な露出シーンではなかったと記憶していますが、胸の薄っぺらい感じは分かりました。
彼女と別れ難くなって再び逃亡生活に・・・という展開ではなく、ピーターは祖国アメリカに向かったはずですが、結末は忘れました。切ないロマンス映画という印象ですね。
カメラは、パリを美しく撮れるようにということでしょう、アンリ・ドカエでした。
リンジーの2作目は翌年の「ペーパー・チェイス」。
ジェームズ・ブリッジス脚本・監督による、学園ドラマ。但し、“青春とは・・・”のような甘っちょろいモノではなくて、ハーバード大学に進んだ学生達の厳しい勉学のアレコレが描かれている映画。
主演のティモシー・ボトムズは法科の学生で、アチラは、<入ってしまえばこっちのもの>という大方の日本の大学とは違って、がむしゃらにやらないと留年、そして落第となってしまう。
法科の厳しい教授役がジョン・ハウスマン(この作品で、アカデミー助演男優賞受賞)で、その娘役がリンジーだった。ティモシーと仲良くなるわけだが、詳しいストーリーは忘れた。
大学の文書保管室みたいなところに夜中に忍び込んで、教授の学生時代の成績表を覗いたり、ラストで、試験の答案用紙を紙飛行機にして海に飛ばしたりするシーンを覚えている。
映画サイトでデータを見てみると、1949年6月22日ロサンジェルス生まれというから、今年56歳ですな。
<マイケル・ブランドンと76年に結婚した他、計4回の離婚歴あり>とのこと。最近はテレビ・ムービーへの出演が多いようです。
前出の二作品は、レンタル店で未だ見かけてない。どちらももう一度観てみたんですがねぇ。
かつて「バイオニック・ジェミー(1976~1978)」というTV番組で人気者になった、最近の人でいえばメグ・ライアン似の女優。タイトルに“地上最強の美女!”という前置きも付いていて、なにやらスーパー・ウーマンのようですが、実は私はこれは見ていなくて、この前の映画でのデビューを見ていたんですよね。
1972年の「ふたり」というのがソレ。ロバート・ワイズ監督で、共演がピーター・フォンダ。
ベトナム戦争での脱走兵がピーターで、逃亡生活に疲れた彼がアフリカ、モロッコの米国大使館に自首する。そして、軍法会議を受けるためにモロッコからパリへ向かう旅の途中でリンゼイと出会い、束の間の恋に身を焼くという話だったと思う。
リンジーはファッションモデルの役で、本人も元モデルというふれ込みだった。
さて、この記事のタイトルの“アレ”というのは何かというと、いわゆるペチャパイで連想する女優ということです。何かのTV番組で巨乳だとか何とかの話が流れていて、ふと思い出したわけです。
オードリー・ヘプバーン、ミア・ファロー、キャサリン・ロス、キャンディス・バーゲン等々、貧乳とおぼしき女優は数々おれど、真っ先に「ふたり」のリンジーを思い出しました。
パリのホテルでムーディーなベッド・シーンがあったと思うんですが、なんせ、相手がこれまた胸板の薄いピーターですので、格別印象に残ったんだと思います。「恋におちたシェイクスピア」のグウィネスのように大胆な露出シーンではなかったと記憶していますが、胸の薄っぺらい感じは分かりました。
彼女と別れ難くなって再び逃亡生活に・・・という展開ではなく、ピーターは祖国アメリカに向かったはずですが、結末は忘れました。切ないロマンス映画という印象ですね。
カメラは、パリを美しく撮れるようにということでしょう、アンリ・ドカエでした。
リンジーの2作目は翌年の「ペーパー・チェイス」。
ジェームズ・ブリッジス脚本・監督による、学園ドラマ。但し、“青春とは・・・”のような甘っちょろいモノではなくて、ハーバード大学に進んだ学生達の厳しい勉学のアレコレが描かれている映画。
主演のティモシー・ボトムズは法科の学生で、アチラは、<入ってしまえばこっちのもの>という大方の日本の大学とは違って、がむしゃらにやらないと留年、そして落第となってしまう。
法科の厳しい教授役がジョン・ハウスマン(この作品で、アカデミー助演男優賞受賞)で、その娘役がリンジーだった。ティモシーと仲良くなるわけだが、詳しいストーリーは忘れた。
大学の文書保管室みたいなところに夜中に忍び込んで、教授の学生時代の成績表を覗いたり、ラストで、試験の答案用紙を紙飛行機にして海に飛ばしたりするシーンを覚えている。
映画サイトでデータを見てみると、1949年6月22日ロサンジェルス生まれというから、今年56歳ですな。
<マイケル・ブランドンと76年に結婚した他、計4回の離婚歴あり>とのこと。最近はテレビ・ムービーへの出演が多いようです。
前出の二作品は、レンタル店で未だ見かけてない。どちらももう一度観てみたんですがねぇ。
(生年月日:1906年8月5日/アメリカ:ミズーリ州ネヴァダ出身/1987年8月28日没/John Huston)
映画人の訃報等が入ると時々記事にしておりましたが、いっそのこと作品紹介とは別に、俳優や監督などについても書いてみようと思い立ちました。ま、故人が対象になるでしょうが、一発目は男性的作風で有名なジョン・ヒューストンでいきます。
8月5日生まれだから獅子座ですな。
お父さんのウォルター・ヒューストンは名優ということですが、私は観たことありません。ジョンがアカデミー監督賞と脚本賞を獲った「黄金(1948)」にも出演していて、この父親もこの作品でアカデミー助演男優賞を獲っている。しかし、残念な事にその2年後の1950年に66歳で亡くなっています。
「黄金」はハンフリー・ボガード主演の、アメリカ西部の山で3人の男達が砂金を掘る話で、黄金が見つかってからの3人の男たちの葛藤が、スリルとサスペンスたっぷりに描き出されていて面白いらしい。レンタルでもありそうで・・・ないという映画ですな。名前だけは何十年も前から知っているんですが、TVでも何回かやっていたと記憶しているんですが、何故か観てない。
ジョン・ヒューストン監督作品で観たのは「マルタの鷹(1941)」「アフリカの女王(1951)」「赤い風車(1952)」「白鯨(1956)」「許されざる者(1959)」「荒馬と女(1961)」「ロイビーン(1972)」くらいですかな。他にもあるかもしれないが、記憶にあるのはこの7本です。
「アフリカの女王」は最近レンタル屋さんに行く度に、いつ借りようかいつ借りようかと思っている作品で、これもハンフリー・ボガードが主演で共演がキャサリン・ヘプバーン。第一次世界大戦下のアフリカで、女性宣教師ヘプバーンを乗せて河を渡る船の船長がボガード。戦争と冒険とカラッとした男と女の話、だったと思う。当然モノクロ作品ですが、子供の頃にTVで観て面白かったという記憶があるので、是非もう一回観たいのです。
micchiiさんのブログ「愛すべき映画たち」で最近取り上げられた、クリント・イーストウッドの「ホワイトハンター ブラックハート」は、この「アフリカの女王」を撮影していた時のエピソードを映画にしたものらしいです。いやあ、ますます観たくなってきました。
尚、ヒューストンはこの年のアカデミー監督賞にノミネートされました。
順序が逆になりましたが、「マルタの鷹」はヒューストンの監督デビュー作で、これもボガードが主演。ダシール・ハメット原作の探偵物で、この作品から“ハードボイルド映画”という名称が生まれたらしいです。TV日曜洋画劇場で観た映画で、これも面白かったのでしょう、今でもタイトルは忘れていません。もう一度観る機会があったら、絶対録画するでしょうな。コチラは、脚色賞にノミネートです。
「赤い風車」は珍しく伝記映画。主人公はフランスの画家、ロートレックです。1971年の「屋根の上のバイオリン弾き」でアカデミー撮影賞を獲ったオズワルド・モリスのカラー映像が美しい作品です。作品賞や監督賞にノミネート。
「白鯨」はハーマン・メルヴィルの古典的名作の映画化。子供の頃にTVで観て、“モービー・ディック”が出てくるところは迫力満点で興奮しましたな。エイハブ船長をやったグレゴリー・ペックのファンでもあったので、これは好きな作品にずっと入っていました。脚本にSF作家レイ・ブラッドベリも参加していて、ヒューストンも相当力が入っていたようです。狂言回しのイシュメイル役に「道」のリチャード・ベースハートが扮しています。
バート・ランカスターとオードリー・ヘプバーン共演の「許されざる者」はオードリーがインディアン娘に扮していたのが珍しかったが、内容は覚えていません。一応西部劇だったと思います。
「荒馬と女」はクラーク・ゲーブルとマリリン・モンローが共演して、二人の遺作となったことでも有名な作品ですな。しかもモンゴメリー・クリフト(事故の後)まで出てくる。ゲーブルはこの映画の撮影の疲労から亡くなった、というような話を聞いた覚えがあります。原作・脚本が当時のモンローの旦那アーサー・ミラーでした。
「ロイビーン」は新作として劇場で観た映画です。ポール・ニューマン主演の西部劇。
本当は観たかどうか怪しいのもあって、「キー・ラーゴ(1948)」「マッキントッシュの男(1972)」「女と男の名誉(1985)」等も観たかもしれんです。
尚、ヒューストンは俳優としても時々出ていらっしゃって、覚えてるのはロマン・ポランスキーの「チャイナタウン(1974)」。嵐勘十郎かと見まごうような、長~いお顔のおじさんです。なんて・・・スイマセン、こんな大監督に。
ダラダラとなったので、一応この辺で、一発目終了とします。
映画人の訃報等が入ると時々記事にしておりましたが、いっそのこと作品紹介とは別に、俳優や監督などについても書いてみようと思い立ちました。ま、故人が対象になるでしょうが、一発目は男性的作風で有名なジョン・ヒューストンでいきます。
8月5日生まれだから獅子座ですな。
お父さんのウォルター・ヒューストンは名優ということですが、私は観たことありません。ジョンがアカデミー監督賞と脚本賞を獲った「黄金(1948)」にも出演していて、この父親もこの作品でアカデミー助演男優賞を獲っている。しかし、残念な事にその2年後の1950年に66歳で亡くなっています。
「黄金」はハンフリー・ボガード主演の、アメリカ西部の山で3人の男達が砂金を掘る話で、黄金が見つかってからの3人の男たちの葛藤が、スリルとサスペンスたっぷりに描き出されていて面白いらしい。レンタルでもありそうで・・・ないという映画ですな。名前だけは何十年も前から知っているんですが、TVでも何回かやっていたと記憶しているんですが、何故か観てない。
ジョン・ヒューストン監督作品で観たのは「マルタの鷹(1941)」「アフリカの女王(1951)」「赤い風車(1952)」「白鯨(1956)」「許されざる者(1959)」「荒馬と女(1961)」「ロイビーン(1972)」くらいですかな。他にもあるかもしれないが、記憶にあるのはこの7本です。
「アフリカの女王」は最近レンタル屋さんに行く度に、いつ借りようかいつ借りようかと思っている作品で、これもハンフリー・ボガードが主演で共演がキャサリン・ヘプバーン。第一次世界大戦下のアフリカで、女性宣教師ヘプバーンを乗せて河を渡る船の船長がボガード。戦争と冒険とカラッとした男と女の話、だったと思う。
micchiiさんのブログ「愛すべき映画たち」で最近取り上げられた、クリント・イーストウッドの「ホワイトハンター ブラックハート」は、この「アフリカの女王」を撮影していた時のエピソードを映画にしたものらしいです。いやあ、ますます観たくなってきました。
尚、ヒューストンはこの年のアカデミー監督賞にノミネートされました。
順序が逆になりましたが、「マルタの鷹」はヒューストンの監督デビュー作で、これもボガードが主演。ダシール・ハメット原作の探偵物で、この作品から“ハードボイルド映画”という名称が生まれたらしいです。TV日曜洋画劇場で観た映画で、これも面白かったのでしょう、今でもタイトルは忘れていません。もう一度観る機会があったら、絶対録画するでしょうな。コチラは、脚色賞にノミネートです。
「赤い風車」は珍しく伝記映画。主人公はフランスの画家、ロートレックです。1971年の「屋根の上のバイオリン弾き」でアカデミー撮影賞を獲ったオズワルド・モリスのカラー映像が美しい作品です。作品賞や監督賞にノミネート。
「白鯨」はハーマン・メルヴィルの古典的名作の映画化。子供の頃にTVで観て、“モービー・ディック”が出てくるところは迫力満点で興奮しましたな。エイハブ船長をやったグレゴリー・ペックのファンでもあったので、これは好きな作品にずっと入っていました。脚本にSF作家レイ・ブラッドベリも参加していて、ヒューストンも相当力が入っていたようです。狂言回しのイシュメイル役に「道」のリチャード・ベースハートが扮しています。
バート・ランカスターとオードリー・ヘプバーン共演の「許されざる者」はオードリーがインディアン娘に扮していたのが珍しかったが、内容は覚えていません。一応西部劇だったと思います。
「荒馬と女」はクラーク・ゲーブルとマリリン・モンローが共演して、二人の遺作となったことでも有名な作品ですな。しかもモンゴメリー・クリフト(事故の後)まで出てくる。ゲーブルはこの映画の撮影の疲労から亡くなった、というような話を聞いた覚えがあります。原作・脚本が当時のモンローの旦那アーサー・ミラーでした。
「ロイビーン」は新作として劇場で観た映画です。ポール・ニューマン主演の西部劇。
本当は観たかどうか怪しいのもあって、「キー・ラーゴ(1948)」「マッキントッシュの男(1972)」「女と男の名誉(1985)」等も観たかもしれんです。
尚、ヒューストンは俳優としても時々出ていらっしゃって、覚えてるのはロマン・ポランスキーの「チャイナタウン(1974)」。嵐勘十郎かと見まごうような、長~いお顔のおじさんです。なんて・・・スイマセン、こんな大監督に。
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