ユダヤ国家が滅ぼされた原因を、ユダヤ人は
律法を守らなかった為だと思っていました。
逆に言いますと律法さえ守っていれば、との考
え、律法主義が中心になります
ここから、ヨハネの5章に戻り、「静まりと
黙想の朝に」(松木祐三著)から紹介します。
主イエスをあかしするものが4つあります。
1、バプテスマのヨハネ
2、キリストご自身の業
3、父ご自身
4、聖書
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると
思って調べているが、この聖書は、私について
あかしするものである。しかも、あなたがたは
、命を得るために私の元に来ようともしない。
…ただ、あなたがたの内に神を愛する愛がない
事を知っています。」 (ヨハネ5-39~42)
「この聖書は、私について、あかしするもので
ある。」
聖書とは何か。これは大きな問題である。
当時のユダヤ人は、聖書こそ自分達のものだと
考えており、しかも、それは律法だと考えた。
中心がモーセの律法だからである。
ところで、律法とは何か。
「・・・せよ」「・・・してはならない」で
あるから45節のように、「訴えるもの」と
なっている。
これに対して、聖書とはメシア(キリスト)に
ついて、あかしする書だと、主ご自身は言われ
たのである。そこには、戒めではなく、命が
与えられる。主イエスが与えようとしている
のは、命である。命が与えられると、魂は躍動
する。喜びが湧く。その力によって、一日一日
を生活したいものである。
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ダビデ王は、色々の罪を犯しましたが、その
たびに、神の元に帰ります。神様との交わりが
出来ていました。すなわち「神様を愛する愛」
がありました。
しかし、その他の王を見ますと、ダビデの
様に神様に向かう人は、少ない。
イエス様は、「心から父なる神を愛する心」
を私達の内に造る為に、来られました。
神様を愛さない罪を十字架につけて。