「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)からです。
「我らの造り主、主のみ前にひざまずこう」
私は以前、使徒信条の講解を頼まれ、
「我らは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
を説明するのに、一つの証しを引用した事が
ある。
それは突然ご主人に先立たれ、残された五人の
子供を抱えて、頼る所がなければ、明日から、
路頭に迷うしかない窮地に置かれてしまった
婦人の話である。相談の結果、田舎の兄の家に
引き取られることになった。
しかし、彼女は、それを断ったのである。
信仰を持っていた彼女は、その悲しみの中で
聖書を読み、み言葉を示されたのである。
それはイザヤ書2-22
「鼻の穴から息の出入りする者に頼るな」
という箇所であった。
これまでは、ご主人に頼り、今又、兄に頼ろう
としている自分への語りかけとして、その
み言葉を受けとめたのである。
周囲の者は心配し、強く反対した。女手1つで
五人の子供をかかえて、この荒波に耐えていけ
るはずがないと。
しかし彼女は、み言葉に、自分の一切を託し、
子供を抱えて、内職を始めたのである。そして
祈りに祈りながら、内職を続け、五人の子供を
立派に育て上げることができたのである。
普段、困った事が無い時には、神様、神様と
言っていても、いざ、頼るなものが必要になっ
てくると、神に頼ろうとしない私達である。
けれども、そこで神に頼って行った時に、私は
こうなりました。こう神様にして頂きました、
という証しほど。強いものは無いのである。
造り主を信じるという事は、神は地球を造られ
たとか、太陽、星を造られたと言う事ではなく
て、もっと身近な事なのである。
本当に、造り主、主の前にひざまずくと言う事
は鼻の穴から息の出入りする者に頼るなと、
聖書に書いてあれば、ハイそうです、私は、
あなたに頼りますと、言い切ることだと思う。
造り主なる神を拝むとか、あがめるとか言うと
なにか、非常に堅苦しい教理を理解する様に
思ったりするが、そうではなく、たとい、どの
様な状態に置かれても、一切は神のも手の中に
あるのだと、信じて、真実に神のみ旨を求め、
又、み旨と信じる所に従って行くのが、造り主
なる神を信じる事なのである。