を求めて」(チェンバース著)からです。
「私は、あなたがたの魂の為に、大いに喜んで
財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう」
(Ⅱコリント12ー15)
犠牲の喜びとは、私の友であるイエスの為に
自分の命を投げ出す時に経験するものである。
(人、その友の為に生命を捨てる。ヨハネ15-13)
命を投げ捨てるのではない。主のために、又、
人々に対する主の関心の為に、覚悟を決めて
明け渡すのである。
パウロは、たった一つの目的の為に自分の人生
を費やした。
その目的とは、人々をイエス・キリストに導く
事であった。パウロは人々の注意が自分ではな
く主に向くように常に心がけた。
パウロは行くところ、どこにおいても、イエス
・キリストが自由に自分の人生に介入されるの
を受け入れていた。
私達の多くは、自分自身の目標にしか興味が
ない。それでは、イエス・キリストが私達の
人生に自由に介入する事ができない。
しかし、主に自分を全面的に、ゆだねるなら
、自分が達成したい目標というものは無くなる。
パウロは、どのようにして自分が「玄関マット」
になるか、心得ていたばかりか、それを少しも
恨めしく思っていなかった。それは、人生の
原動力が、イエスへの献身であったからである。
私達は、イエス・キリストに全面的に献身する
より、自分を霊的に解放してくれるものに熱中
しやすい。しかし、それはパウロの動機では
なかった。
それどころか、
「私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞
の為なら、私自身がキリストから引き離されて
、のろわれた者となっても良い、とさえ思って
います。」 (ローマ9-3)
パウロは、それほどまでに主を愛していたので
ある。
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「生くるにも、死ぬるにも、わが身によりて
キリストの崇められ給はん事を切に願い、
…我にとりて、生くるはキリストなり、死ぬる
も又、益なり」 (ピリピ1-20)