ガラテヤは、現在のトルコの中央部に位置する
所で、パウロの宣教によって複数の教会ができ
ました。
しかし、後にユダヤ教の教えを押し付ける者が
来て、キリスト教会員を惑わします。この事は
ユダヤ人に喜ばれる事でした。
そこでパウロは手紙を彼らに出します。
パウロの福音は、人からではなく、直接、
神からの福音であると伝えます。
「あなたがたが、こんなにも早く、あなたがた
をキリストの恵みの内へ、お招きになった方か
ら離れて、違った教えに落ちていく事が、私に
は不思議でならない。」(1ー6)と警告します。
「今、私は人に喜ばれようと、しているのか、
それとも、神に喜ばれてようと、しているのか
あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか、
もし、今なお、人の歓心を買おうとしていると
すれば、私はキリストの僕では、あるまい。」
(1-10)
ここから「ロゴス・ミニストリー」から引用。
パウロは、福音というものが、どういうものな
のか、なぜ他の違った教えに人々が引き寄せら
れるのかを言っています。
キリストの福音は、必ず私達の肉が嫌がります。
従って、それは受け入れたくないものです。
なぜか?、一つに私達の自尊心を傷つけます。
「あなたには、救いが必要です。」と宣言して
いるのですから、自分が救いを必要とする様な
卑しい人間ではない、と思っている人は、ひど
く傷つきます。
キリストが全ての事をして下さった、という恵
みは、言い替えれば、自分に出来ることは、
何一つ、無いのだ、ということを教えます。
もし、人が何かを出来るのであれば、キリスト
は十字架に付けられる必要はなかったからです。
そして、キリストの福音は、私達の知恵を愚か
なものにします。
色々、知恵を尽くして、人が救われるには、ど
うすれば良いかを考えてしまいます。
しかし神はそれらを皆、愚かなものとされます
神が人となり、しかも僕の姿で、卑しめられ、
殺される、この形で、救いがもたらされる、
とは、つまずきを与える事、満載です。
キリストの福音は、人の知識を傷つけます。
キリストの復活は、自分の経験や、培ってきた
教育や、知識に反します。死んだ人がよみがえ
る?、そんな事は無いだろう。
そして、よみがえりを信じる事は、人を人間の
方ではなく、神の方に目を向ける様になります
。神でなければ、復活という、罪と死の法則に
反する事は、できないからです。
私達は、人から良く見られたい、という強い
欲求があります。これは生存本能の様なもの
です。自分の考え方、生活スタイル、あらゆる
ものに「外見を良くしたい」という、本能から
出てきます。
しかし、自分のそのままの姿を包み、隠さず
キリストの所にくる者は幸いです。そこに
福音があります。
救いを十字架に求めるという事は、自分の内に
救いがない事を教える事であり、また、世界に
も救いが無い、という事である。
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この1-10の聖句は、私が洗礼を受けるきっかけ
となった句です。
初めの頃は、宗教とは、人を慰め、励まし、人
の役に立つ人間になる為にある、と思っていま
した。
しかし、この句で、人を見るな、まず神と向き
合えと示され、すると、わたしの過去は、神様
を全く無視して来た、罪人の人生と思われま
した。この罪はキリストの十字架による以外に
頼るしかないと示されました。
同じような気持ちになったのは、
ガンで入院した、夜の時でした。窓の外を見な
がら神様の前の自分の姿でした。