(いのちのことば社出版)に聖霊の啓示について書いてあり、そこから抜粋します。
私達は、自分自身の智恵の恐ろしさを学ぶ必要があります。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」 (箴言3-5)
「キリストにつく者は自分の肉を…十字架につけてしまったのです」 (ガラテヤ5-23)
この事は、肉の理解や肉、心、義、力、意志をも十字架につけた事を示します。ただ、キリストが、その命の力により、私達の内に働いて下さるのを待ち望むしかない様に、私自身の智恵については、特にそうしなければなりません。
人間の知力は最も気高く、最も尊い機能の一つです。しかし、罪は全く、それを支配しています。
人は真に回心した後においても、いかに、しばしば生まれつきのままの知力で神の真理を把握しようとして失敗している事を悟らない。
多くの聖書研究が人々の生活を潔める力がない原因は、それが聖霊によって教えられていない点にあります。
聖霊の指示を待ち望む。そして、割礼を受けた耳すなわち、肉による理解の力を取り除かれて
心の内に宿っているイエスの命の御霊に聞く様な
耳を持つ必要があります。
「神の御心の事は神の御霊の外には、誰も知りません。神は、これを御霊によって、私達に啓示されたのです」とパウロが言う様に、聖書知識の多少や、興味などではなく、どんなに真剣に聖霊により頼んでいるかで、恵みを受けられる事を知ることが出来ますように。
「私は、私を尊ぶ者を尊ぶ」 (Ⅰサムエル2-30)
と言う、み言葉は、この点で極めて真実です。
自己と、その全ての知恵を十字架に渡し、パウロの様に、弱さと、恐れと、大きな戦慄を持って来る者は確実に聖霊と御力の示現を上から受ける。