「私は激しく、神の教会を迫害し、殺害した。
私は、同じ年輩の多くの者よりも勝って
ユダヤ教に進み、先祖たちの言い伝えに熱心に
仕えた。
しかし、…私を召して下さった方が、私を選び、
御子を私の内に顕して、その福音を異邦人に伝
える事を良しとされた。」(ガラテヤ1-13~16)
ここから「限りなき主の栄光を求めて」
(チェンバース著;尾崎富雄訳)からです。
私には、自分が受け継いできた、どうしようも
ない性質がある。私は聖くなく、これからも
聖くなる見込みもない。
それなのに、イエス・キリストが、あなたは
聖くなければならないと、命じられるだけなら
、その教えは私の心に絶望を与えるだけである
しかし、もし、イエス・キリスト(新生をもた
らして下さる方)が、ご自分の聖なる形質を私
の中に入れて下さる方であるなら、私に聖く
あれ、と言われた事の真意が見えてくる。
贖(あがな)いとは、イエス・キリストが誰に
対しても、ご自分に宿る性質を、その人の中に
入れるである。
そして、キリストが教えられた基準は、全て、
その性質があれば、満たされるものである事を
意味している。
キリストの教えは、キリストが私の中に埋め込
まれた命に対して、適用されるべきものである
。
私が取るべき行動とは、キリストが十字架の
上で、神が罪に対して示された判決に同意する
だけである。
新約聖書は新生を次のように教えている。
人は、神の前に、自分が変えられる必要に
突如目覚めると、神は聖霊を、その人の霊の
中に注ぎ、
「キリストが形造られるまで」(ガラテヤ4-19)
人の霊が神の御子から力を受ける様にして下さ
る。
贖いによって、奇跡が起きる。それは神が私の
内に埋め込まれた新しい性質によって、それま
でと全く違う新しい生き方が、出来るように、
なったからである。
私の欠乏が極限に達し、自分の限界を知ると、
イエスは「あなたがたは、幸いです」
(マタイ5-11)と言われる。私が、その必要を自覚
しなければ、神はイエス・キリストにある
性質を、私の中に入れる事はできない。
罪の性質が、一人の人(アダム)を通して人類に
入ったのと同様に、聖霊は、もう一人の御方
(キリスト)を通して人類に入って下さった。
(ロ-マ5-12~19)
贖いとは、代々受け継がれてきた、罪から
解放して頂ける事。そしてイエス・キリストを
通して、私は清く、シミの無い形質、すなわち
聖霊を受ける事ができる事を意味している。
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私は乏しい。
しかし、イエス様には宝が隠されている。
日毎に、主の前に出て、その恵みにあずかる。
必要なものは、主から、必要な時に、必要な分
だけ頂く。
だから、私は乏しくはない。