聖書と共に

もし私が福音を宣べ伝えずば

今日は、第一コリント9章です。

モーセの律法に
「穀物をこなしている牛に口籠をかけてはなら
 ない。」
労働をしている牛は、その穀物のおこぼれを
食べても良い。

パウロは、自分で天幕作りの仕事をしながら、
コリント教会を指導していた。
自分に与えられた権利を、用いなかった。

「私が福音を宣べ伝えても、それは誇りになら
ない。なぜなら、私はそうせずには、おれない
からである。もし福音を宣べ伝えないなら、
私は禍害(わざわい)である。」

「すべて競技をする者は、何事にも節制する。
彼らは朽ちる冠を得る為に、そうするが、
私達は朽ちない冠を得る為に、そうするのであ
る。」

オリンピックが始まりますが古代オリンピック
はBC776年~AD393年まで、ギリシャで行われ
ていました。 コリントもギリシャにあります。
パウロは、そのオリンピック選手を想いながら
書いたのかも知れません。

「私は目標のはっきりしない様な走り方をせず、
空を打つ様な拳闘はしない。自分の身体を、
打ち叩いて服従させるのである。」

ここから、「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)
からです。
キリスト者の生活の基本は、神を中心に置く事
である。時間の使い方、(特に余暇の用い方)、
お金の使い方で、その人の考え方が分かる。

人生が競技に例えられている。競技をする者は、
賞を得る為に、何事にも、節制して走る。
私達は、朽ちない冠を得る為に、今、主に
仕える事を喜びとして走る者でありたい。

ここから「限りなき主の栄光を求めて」からです

パウロは
「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」
と言った。パウロは神の召しを自覚した。
その結果、他の者に自分の力を削がれずにすんだ
のである。

誰であれ、神の召命を受けると、どれほど困難な
環境も、問題では無くなる。神は、どの様な
力が加わろうとも、最後は自分の目的にかなう
全てを整えて下さるからである。






名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る