鰭崎英朋《名月》
『だが、良さまは“石女”といわれて』
そうした新婚の一年間が、またたくまに過ぎ去った。
ご新婚時代の昭和天皇と香淳皇后 (大正十三年3月)
・・・・国民たちは間も無く“良宮さま“ご懐妊”の発表があるものと期待していたが、大正13年が終わりに近付いても、いっこうに“ご懐妊”の報道がない。となると、おかしなうわさが流れて出した。
良さまの婚約時代、「色盲の疑いがあり」として、婚約破棄を主張した山県有朋公爵が、臨終の床で「良さまには、絶対に皇室のお子を生ませるものか」と誓い、その呪いで、良さまを石女にした、というのである。
こうなると、やはり、かつての大奥制度、側室が必要ではないだろうか?ーーと頭を持て始めた。
最近、“天皇ヒロヒト”という本を書いたイギリスの作家、L・モズレ━は、この辺の事情を、外国人の冷静さで、こう評論している。
《恋愛やロマンスに関することになると、日本人は実にだらしなくセンチメンタルである。しかし、結婚となれば、日本人はそれについて冷たく、実際的である。妻というものは、とくに皇室の妻になるものはただひとつの目的しかもっていない。それは夫の子供、出来れば男子を生む“うつわ”になることであり、出来るだけ早く効率的に、それを生むことである》(高田市太郎訳より)
ーーまさに、モズレ―のいうとおり、“嫁して三年、子なきは去る”(結婚して三年たって子を産まない嫁は離婚されるべきだ)という条件が、疑いもなく人の口にのぼっていた時代だ。良さまに、そうしたうわさや取り沙汰が、どうひびいただろうか。
━━それから、42年間をへたいま昭和41年12月のある日、私たちの編集部に、一読者からの手紙が、届いたのだが・・・・。
取材 本誌 文 水野泰治
・・・・ここまでの分しかありません。その前後がいつか見つかれば又公開します。
香淳皇后《紅白梅図》