売れるモノを創らねば。
と言う時、多分、これは今、「売れるモノ」な訳だが。
「すまない、許せって言って逃げていく人の歌だよね」
良い歌なの?と問われると、現状、窮乏する立場とかからすると、疑問には成る。
「売れる物」とは何か?と言うと、”雅”市場その理解で言えば「高い価値がある物」である。
高い価値、それは「そこに多くの同意がある」そう言う意味、だ。
「売れる物を創らねば経済は回復しない」それは、多数派を超えた様な同意、それは今、言えそうな気は、する。ほぼ強制力だ、創作への要求、その不文律ではあり。そこは改善とは言える、がしかし。
「無理な事からは逃げた方が良い」
そう言うのも、実際には高い価値がある訳で。
すると、「その先」にある、「救済を求める声」それは、無視する事に成る訳だ。
そしてそれは、決して少数派、では無い。津波を、土砂災害を前にしたら、人に出来る事はただ一択である。二次災害を防ぐ事を考えたら、その方が「良い結果」でさえあり、ともかく「正しい」それはそこに重い同意を置く。
これは多分、声の大きさとしても、「困ってる人を助けねば!」よりも、はるかに大きな声には成る。その時、救済を求める声、それは多数決として切り捨てられる…その現実に直面はする。
同じく、
「良識的に社会性を持って生きねば」と言う声と、
「他者を押し退けても、自身の願いは叶えねば成らない、私には夢がある」という声もまた、
後者の方が、重い同意があったりする、訳で。
信仰の結果、ではある。
大衆は神である。その思惑の中には様々な声が、”そう言う感じ”で犇めいていて、その局面に対して選択を要求。今までは、その場の個人にその選択を委ねた経緯はある、が。今は、「大賀さん」紛争解決機構その決定に依存する、その時、その声は、消される事無く残る事には成るのだけど。
結果むしろ、”自分の視点では”状況が悪化したりする、そう言う面は、どうも有る。
多数決かで、少なからず劣勢に成る訳だ、今までは特に、無理が通れば、”それ”で上手く行っていた、様に見えていた訳だし、多くの人が、それを正義として、或いは犠牲者でさえそれを求め、犠牲に成って行った。
正直、「神の救い」それは、どうも期待とはかなり、違うモノではある。
自分の求めたモノ?要求、理解、それでしかない感じもある。”それ”は万能なコンピュータの様なモノだ。求めよ、さらば与えられん。「これが必要です」を、神が了承すればそれは発生するが、求めなければそれは存在しないし、「それは無理」は結果として現れたりする。構造を理解し、解析し、手続きを組む、それは人間の責任である。環境は万全だ、人が求める事で出来ない事はまず無い、しかし。等価な二択、それは超えられない、自由意思、その帰結として対立はそこに有る。
救ってくれない神よりも、手を差し伸べてくれる悪魔の方が魅惑的だ、それは相変わらず、面倒の始まりとしては…定番ではある。
使用イメージ
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