何はともあれ感覚の徹底から、ではある?
「良いね」したなら、買え。
では無い。
問題なかったら「良いね」で良い。金が無い人に買わせる理由は無い。
ただ、「良いね」した上でお金が有るのなら、払うのは道理であり、義務だ。
それは”普通”ではあるまいか。
「PS5いいね、余裕が10万位あったら買ってるなぁ」
無いなら買わなくて良い、ただ、「良いね」まで否定する必要は、ない。
感覚で今まで、「良いねしたなら買え」そんな強制力?そう言うのは結構有った、気はする。昭和天皇から続く?感覚だろうか、「悪いのは全て私である、私に責任がある」しかし?実際に太平洋戦争での主犯は軍部で有り、天皇陛下は相手の剣呑に押し切られた、そう言う絵の方が、リアリティだ。幸い、だろうか。ともかく勝つか負けるか、で言えば勝利はした、のだ、日本は何とか助かった。故に天皇制も継続した、天皇陛下も最終的には責任を問われなかった。ただ、無茶な妄執に囚われた、それは軍部に責任はある。
しかし、とは言えそんな経緯で「太平洋戦争の勝者」となった昭和天皇の”決定”である、それは、末端にしろ逆らい難くある、責任者?は責任を取る為に居るのだ、どれだけ巨大な負債だろうと、背負わねばならない?
それは無理だ。
果たしてと言うか、その流れの強制力が、末端に娼婦、犠牲、それを呼んでいた、のは一理はある。男性は女性に比べて土壇場での断言に弱さはある、その時、妻の存在は重い。その時、その決断をしたのは誰か?と言う時、不意に、妻への、或いは自身の上位の女性、それに責任が廻ってしまう、そう言う状況は実はある、権威に対して意見し得たら?それはもう、その権威より上位だ。
そう言う流れを「男性は多、女性は個」「多の責任を個に廻してはいけない」それらは、一応は形式上、弱める事は出来ている、筈ではある。
その上で、”雅”市場での支払いは、「良い」=「購入」では、無い。「良い」の量を、お金を持ってる人々が分担して支払う形式だ。意識を変える必要がある、見える範囲で1000人位が良いね、したら1000人の客が居るのではない、”それは1000円”だ。もっとマクロに、日本の100万人位が「良いね」しなければ、それは100万円の換金へ可能性は、無い。
この道理でしか、今の所は安定した換金が無い、”気は”する。またそうで無ければ、末端程高額を吸収され潰れてしまう。そこに未来は無い訳で。世界が、既存の「金本位制での」借金の返済へ、ロードマップを示せないなら。それはもう責任を取らねばならない、「基幹と考える事は出来ない」のだ、価値の感覚は今、”雅”市場、実際にはそこに有る。
大衆に支払って貰えば、お金は幾らでも出る。
ただその為には、大衆、”神”が求める物を提供せねばならない。
当り前、だが。
それはどれだけ、シニア世代にストレスを与えるモノか、それはまた、別の懸念。