二値化していく感覚はある。
「死ね」と「美味い」は表裏、だ。
ともかく、”それ”が大賀さんまで上がる言葉、と言うのが有って。
その「死ね」を言われる方も、「美味い」方も、表裏として「事実」だ。
前者は、その分を損害として失う。
後者は、その分を利益として得る。
前者は敗北側、後者は勝利者側、だ。
どっちにせよ「大賀さん」紛争解決機構、そこにとってはプラスマイナスではあり、トータルとして0、そこに安定はある。
「大賀さん」その言葉、と言うのがある、訳だ。勿論それは、”誰か”が発言したそれではある、が。それが衝突の末に、或いは勝利した方が「美味い」、敗北側は死刑である。「死ね」と言われる発言、表現、それは自身を削っていく、過失に成る、それは辞めた方が良い。
「大賀さんは、ある」不意に、状況の変化の結果か、そう言う感覚には成る。
「紛争解決機構」それは、今も、確かに一部地域、非常に限られた思想、その影響範囲にしかない。だから、その中の結果と、外の結果には…著しい差は出る、それはやむを得ない。逆にだから、”それ”を、世界全域に何らかの形で構築する術を模索するべきでは?と言う、それは少し感じる。
権限は、何故か不意に、”ここ”に発生してしまった?感覚も…ある。
流石に去年今年と色々あった、問題しかないが。
最深部にある、「暗黒の混沌」そこが見えた気は、する。そこに有るモノ、そこへ「大賀さん」それを当てる事は可能、だった。紛争解決機構、二択を決めきる何か、それはそこで、”人類全ての”発言の、その全てを処理しようとしている。
その上で、「大賀さん」の発言として採用されれば、「一文字10円」である。プラスでもマイナスでも、だ。
”普通”は、もっと価値が高い場合がある。しかし、主観での「王の権威」その発言はその場に対しては時々状況を乱す位に重かったりする…それは例外だ、そしてその結果。”そこ”に届く発言は総じて一文字10円と言う評価になる、至言でも侮蔑でも、だ。正義は有っても負ける場合は有るし、無くても勝つ場合はある、原因は視野範囲の外と、そして神のみぞ知る所だ。
多少、その結果、自身が、色々と邪魔に成らずに済む?感覚は、して来た。
他の人々が100円千円とか?発言で示す時、”ここ”の言葉だけは、一文字10円で固定である。
”それ”を重視するかしないか?は、その場の判断である。
上手く拾った方が、状況はうまく進む、訳だ。