あげちうのブロマガ

とある美しい姫君らの踊り

イメージは良くない。

そこに、利益を期待しない創作?が有る。それは「王」の所有地ではありつつも、王はそれを換金する気が無い。そこには価値があり、換金は現場では可能な時、それを近隣住民かが勝手に採取し、加工し、換金していた。

やがてか、”そこ”に有りつけない人々が、まだ形にも成ってない物まで盗み出す様に成っていって、それは王の中で問題に成っていった。


「不味くない?」

しかし、それが昭和からの「今まで」だった、訳で。王のそれは大衆のそれである、それは人々が求める何かだ。そこに暮らしてた人々がしかし、問題としてその環境にどれだけ順応してたか?ではあり。「その家には大きな池が有り、野鳥が良く越冬に来てます」とか、そう言う。ユダヤ教の王は、この状況に全否定を向けていたし、「王」もそれには同意が有った、が。しかしその結果、創作の利益性が消える、と言う壊滅的な事態も同時に発生していた、訳だ。ユダヤ教の王はそれに対して資金的にバックアップした、かもしれないが、「増えてない」のだ、それはやがて。

これは過渡期、という曖昧な期間に残る物、だろうか。

打開される前と、打開した後と、実績は前者、未来は後者、後者は前者を、やっぱり否定はする、”それ”では「飼われてるだけ」ではあるまいか、人間が。とは言え昭和と言う黄金期は”それ”によって成り立っていた、可能性が結構有り。そこでお金を増やし、世間に供給する事で経済は「自然減を抑えていた」のだ。ある種の安定は、違う安定へ姿を変えてはいる、しかし。”それ”を継続すべきか、新たな方法論を主体とすべきか、王にしろ後者の方が良い、しかし。

前者は「王」をどんどん隠匿していく事にも成る訳だ、王で有る資格を失うまで?

それでも実際に現れる絵は、微妙に期待と共にはある、もちろんその先の不安も。

とあるゲーム基板から、或いは「毒」が抜けた可能性はある、が。その時そこに有る絵が、結局は何だか”そう言うイメージ”だ。王の周りに居る、近しい人々の、そんな。雇っている訳じゃない、飼っているのだ。売春では無い、彼らはただ、勝手に集まっただけだ。

そんな?彼らの様に対し、それの是非は思う。
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