あげちうのブロマガ

私は潔白ですとそうじゃない人が言う

色々考えると、「テレビの復活」は全体のストレス軽減にはなる、可能性はあって。

ただ、その時「芸能界」その統制というか、良くも悪くもジャニーズ事務所、その存在は或いは。

 

理解としては、「警察官になる奴が法を犯す奴で有っては成らない」という、”それ”を、芸能人にも要求するその是非、ではある。色々な意味で、「売れる存在」を”創る”技術…というかは、ジャニー喜多川氏に依存していた感じ、それは非常に強くある。”その”意識を色々と考えると、それはそういう感じに帰結はしていく気はするが。

「つまり、お前は此処に不適当だ、という事だ」それで排除される、それは排斥か或いは?ではある。

経緯の逸話を色々考えると、もちろんかジャニー喜多川氏には理想?はあったろう。「人間大差ない、潔白であるならスターへ育てられない事はないし、有っては成らない」台詞にすればそう言う感じ、だった感じは、する。それで、昭和後期からにしろ、「採用」それはそういう感じの人々だった、感じはある。問題は無いが、社会的な問題で何かの苦境の中に居た、様な。そういう中から拾い上げてスターへ育てていく、というのに、社会にしろ理想を見た、訳だが。

選抜基準は、ジャニー喜多川氏の主観だった、それは間違いない。

そしてそれが後々、問題を起こしていく・・・そういうのは、多分。

この辺の、主観でしかない選抜、という混沌が、平成で問題視され、やがて歪んでいった、という面はある、気はする。想定する最初期の理想、”それ”で行けば、テレビに映っているのは希望である、如何なる劣悪な環境からでも潔白で有るなら救いは有るし、努力次第では成功者に成れる。もちろん、それが努力目標だ、それは解っては居ても。当然か、昭和天皇、それだって同意は有ったろう、そこに人々が希望を見た、テレビにかじりついたのは、恐らくは間違いない、が。

問われる話は、次第に重く、面倒になっていくのも間違いない。

”多少”の犯罪歴、それは何処まで許容し得るモノ、だろうか?

最近ちょっと、言い切ってしまう部分は出て来てる。「潔白じゃない奴は何やってもダメ」、過去の犯罪歴は、例え発覚してないとしても残り続ける、そう言うのは償い清算してないなら?その人に負のオーラ或いは行動としてどうしても、負の結果として現れる。”それ”が残ってる限り成功者には成れない。この時、対応は面倒だ、一般論でその人物には何の過失もないのに、その人を「お前は潔白じゃない」で切る事になる。

今も、この辺の対応は、「売れなかったんだからしょうがない」それ以外では、無い。

同時に理不尽が残る?としても、”それ”をしなければ、負を残す事には成る訳だが。

「お前の様な奴を芸能界は求めていないんだ」と、”それ”で切り捨てられるという、その帰結は果たして、ではある。テレビという巨大メディアがそういう態度に出る、という事の、意味だ。それはもう、社会その物から「いらない」と切り捨てられたに等しいのでは有るまいか?それでも、それを選択する事は正しいのか、晩年のジャニー喜多川氏にも、苦悩は有ったろうか。

ともかく「大衆は神である」思想としては、「売れた」存在は正義として扱う事には、成る訳で、逆も真なりだ。一般論でそれはどうなの?それは、非常に考える部分だったりもするが。だから結局、ジャニー喜多川氏のスキャンダルその他は果たして?それはちょっと、思う。そして、納得できない部分、それもまた、残りはする訳だが。

理想は残っては居るが?同時に、混沌も消えていない。

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