あげちうのブロマガ

先生と言う条件と愚者の熱意

その作品は、「テレビに出たい女性らの現実」みたいな物を描いていた。

”それ”は何だか人気に成ったが、数話で打ち切り?に成ってしまった。


成ってしまったのではなく、掲載側で止めた、のだが。その是非ではある。描こうと思えば、「歴史上様々ある面倒な状況」を、その後も様々に列記していく事は出来たとは思うし。同時にそれは「と言う訳で、そう言う事はしない様に」そんな、社会貢献性をも見せる可能性さえ感じさせた、が。問題は、描いていた人々が、そんなに経験豊富、という訳じゃない事、だった。このままこの方向で「先生」に成っていく、”それ”は正しいのか?実際に地雷を踏んだ人々に対して、そんな苦労か面倒を乗り越えた訳でもない存在が、”それ”に対して「愚かな事をしましたね」とか下向きに言う、その是非ではあり。

…ともかく故に作品は、”自身らの”踏みそうになった地雷、を撤去して終わった、感じではある。

”この”方向性を語れるのは、正直あの「瀬戸内寂聴」氏位しか、居ないのではあるまいか。それは彼女の残した幾つかの書物かに薄らか、残っている感じで。現状ではリアリティの無い「先生」役ではある、十分な調査や研究をするにしても、ともかく同人にちょっと色が付いた程度の人々が、描いて良い内容か?ではあって。中止した、という判断は妥当だろう、とは思うが。

良くある話だ、人気ある作品が終ると、そこに重い不満が残る。普通はそれが次の作品への原動力かになる、にしても。しかしこの場合、「この」方向を続けるべき?そこには深刻な問いは、不意に。先生が出来る様な経験か考察の無い人間が、先生を要求されたら”それ”を続けるべき?ではある。

同人から出ていくべきか、それとも同人にとどまるべきか?そんな感じだ。単に、同人の延長、そのつもりでしかない先で…人気が出たので同人誌創るのはもう辞めます。妥当ではあるけど、その時置いて行かれる人々の、”それ”に対して、か。

定番と言えばそう、エロ漫画描いていた人が、人気出たので一般誌で普通の漫画を描く、その是非。「エロ漫画」と言うのが”そう言う物”で良いのか、或いは、ではある。

”それ”はそれで、需要があって仕事としてある、訳だが。

自身の目的さえはっきりしてない状態で、”そう言う話”に立ち向かうのは、少し面倒ではあるまいか、という配慮は果たして、是か非か。

「売春を否定する」時、今までの常識はその時、大分違うモノには成る。

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