切迫は、あるのだろう。
「私は彼に育てて貰った」的な話は、クスィーガンダムの方に有るのだ。
それをもし、ニュータイプ?的な感覚で運用する時、「出来るよね?」と問う相手は、それは、「出来るけどやらないだけ」だ。かなり無理を要求しつつも、「出来てしまう」ので、相手はそれを見て、奇妙に笑っている、訳だ。潜在能力的な物を引き出す、それは一種の方法論としては有るが。
「出来ない」場合は、本当に出来ないので。
ニュータイプ、では無い奴がクスィーガンダムを運用しても、その作品は、めちゃくちゃにしか成らないのだ。
ペーネロペーの方がまだ、その破綻した時にも、責任を監督には問える。監督の指示や提言が無かった、”だから”だ。前者はその時、責任が現場に廻ってしまう。そして今もそうだったが、成功した時は、「その監督の手柄になる」のだ。現場は次第に、不満を蓄積する事にはなる、無理を要求され出来なくて怒られ失敗の責任をなじられる。その結果が或いは、「悪魔城ドラキュラ アーケード版」その破綻に繋がる、訳だが。
クスィーガンダムは今、微妙に問題しか起こさないのだけど。
「カウンタ制御」は今も、ペーネロペーに対して”重い否定感を向けている”訳だ。結果、或いは現場の責任で”ここ”のアイディアを採用した時、カウンタ制御がどう動くか解らなくなる。アメリカの威信さえ背にしての、切迫感のあるそれであり、それは今までの様に、数多の犠牲者を出しつつ突き進んできたのだ。グラディウスの話は、その一つに過ぎないのかもしれず。
あらゆる問題それは、「カウンタ制御」そこには集中する。
その本体とは、果たして何なのだろう。