ある意味で、現在進行形だ。
断罪し、罰した方が良い、のだが。
過去は8割が留年した、と言うその学校から、現在に排出される人材の多くが、何かの優秀性は見せつつも、利益性からは大きく見放されてしまう、事に成った訳だ。彼らが絡む企画その他は、最終的には重い損害を発生させる。ただ、底に眠るかの理念は、彼らに何かの団結を強いている。
家族は大事だ。
優秀で無いと言う事は、排斥の理由に成らない。
一度や二度の失敗など、問題には成らない。
失敗が続けば続くほど、彼らはその理念に依存し、何かのカルト的な勢力、それを形成していって…そう言うのが結局は、平成を支配した方向性、「皇帝創作」の推奨、それに成った訳だが、主観的な理解としては。
売れる、或いは売れた作品は、”彼ら”を否定し、断罪する。
”それ”を否定し、自身らの正義をこそ前に出す!事が、彼らの生存戦略と化して行った訳だ。
多くの場合、”そこ”には道理?と共に、ある程度の許容はある。
…しかし、「売春婦を強姦して殺した」そこには今も、”それ”が発生しない。
理由は感情論では道理でしかないが、物理的には「神がお許しに成らない」レベルだ。
神を信仰しないなら、”それ”は彼らにとって理由に成らない訳で。
全く、彼らの理念その物が、”そこ”で彼ら自身によって否定された様な、そんな光景ではある。家族を守り、劣等を擁護し、失敗を容認する、その先に、その事件はある。それは計画的な犯行でさえある、追い込んで、輪姦し、殺した。
それは不思議と、「ゼビウス」その問題にも繋がってくる。「残機は3機まで」売春婦は死んでしまったのだ、彼女はもう生き返らない。その失敗に次は無い、解っていた事だ、家族のする事であっても。”そこ”は、断罪せねばならず、自身も罰せねばならなかったのだが、それをしなかったか、出来なかった。
「これはダメだ」
そこには、動かない断言が有る。
或いは、「大賀さん」その神判として。
けものフレンズ3、第7章は、そんな抵抗として或いは、ある。
「新世紀エヴァンゲリオン」それは今も、大きな問題の起点として、ある。