「自前でテレビ局でも開局したら?」
”それ”が、今のここだったり、「出張動画版」な訳だが。
Youtubeでもやってますわし。
「もやしにニコ動ポイントを付ける」それ自体は、アイディアとして悪くもない気はする。あくまでも自分の方法論その他では、だ。付加価値がある時、客はお祭りで高い商品を買う様に、少し余分にお金を出してくれる。経済的な面ではその「付加価値」にこそ、実際には利益性があって…良質な”それ”を提供している所に経済的な発展は有る、訳だ。その時?ニコ動ポイントなら?「おまけ」として選択式ではあり、付加価値として期待感はある、のだが。
最大の問題は、そのニコ動ポイントで見れる作品って”面白い”のか?って事で。
「被せ」の、病理かもしれない。客は、”被せ”た作品を、評価こそすれ?意外と「お金を払ってはくれない」訳だ。お金を払う、時になってふと気づく、「…必要?」いらないかも。確かにそれは道理だ、被せはパクリだ、パクリに価値は無い。
結果、「連中は!散々煽り評価するくせに金を出さない!」とか、一部の創作者らは憤慨する訳だが。
この辺の、客に評価こそされてもお金は出ない時。「俺は間違ってない!」で直進する先に、或いはその「息をするから魔物が出るなら息を止めるしかない」そんな極論が出てくる訳だ。
私は正しい、私の創作は間違ってない。それが利益を出せてないと言う事は。利益が出ていると言う隣のあの駄作は、どっかから利益を供給されている”だけ”な訳だ。創作に利益性は無い、映画産業も潰れた、テレビにこそ正義がある。誰かがお金を集めて自分にとって都合の良い所に配給しているだけなのだ。問題はそれをどうやって成し得るか?だけだ。創作の利益性とはそこにこそある。
それは「金持ちをどうやって恐喝するか?」こそが大事だ!と言う結論では、あり(-_-;)。
良くも悪くも、”これ”にテレビも創作業界も”全部”支配?されてる状況が、ある。経過はともかく、現状の「表」はそう言う状態、だ。密かなファシズムに支配されていて、それに対して歴史の重さか被害者の多さか、簡単には覆せない何かの壁があるが。ともかく「間違ってる」事の証明は、大事な話、だ。どうすれば良いのか?利益性は何処にあるのか。テレビの、創作の必要性とは何か?
要するに付加価値だ。その商品を購入する理由。あなた方がこの商品を購入するからこそ、この番組は創られてます。一応、テレビこそが、社会全体に付加価値を発生させる起点には成っている、訳だが。そこが歪んでしまった訳だ。相手は既に他者の意見を受け入れられる状況ではないが、利益が出ない、それは現実ではあり。立ち向かわねばならない!にしろ、どんどんと利益性が消えていくそこは、窮地ではある。
一応、自分のこういう行動が、意味を持つなら。自分の領域だけとは言え社会に付加価値を与えているのなら。その部分だけは、利益性を維持出来る、筈ではある。その返礼として自分の生活は守られる訳だが。それは、今までからすると或いは”あ”ではあり。それを組み込んだ状態は結局は”あBCDE”と言う、ちょっと違くない?的な絵ではあって。もちろん、Aにとっては全否定の対象でしかないしかし。利益性それは、大事な話、だ。
需要に対して、供給している気は、する。その内容によって、自分の未来も変わってくる訳だが。
しかし、相変わらず命題は同じだ、「正義は勝つのか?」一人対世界でも。
一人で続けるテレビ局、それは果たして維持出来る物か。