認識の問題だったり。
或いは、屁理屈で納得するだけだったり。
ともかく以前に書いた、「一文字10円」その意味は何か?ではある。当初の希望としては「一文字が10円で売れる」書いただけ金になる、様な絵だったが実際には。「10円を配っている」そう言う感じ、と思えば、そこには道理?は通る。
ただ毎日、自分は一万円弱を「消費」しているのだ、”世間へ”向けて。少なくとも読者?その居る環境へ。それは?でも「0円」或いは単なる労苦、それをコストに、ただ”発生させた”それであって。自分は損はしていない、一文字10円的な何かの価値、それは読者と同じく”そこ”に残ってはいる。それは、お金の担保として機能し。
しかし、「世間に0円で出回っている10円の価値がある物」を購入する奴は居ない、だけだ。
一応は、理解の上での「最終的には自分で購入し、自分で消費している」結果としての±0、という感覚を、超えては居る?訳だ。毎日、数万円を”生産”し、出荷している。
”これ”は、もちろんテレビ、それに対しても要求される事、ではある。問題はテレビの場合「製作費」それはどうしても必要で、それをどうやって捻出する?と言う感覚の先に虚無が、どうしてもある訳だが。しかし?何処かでこういう「コスト0円から一文字10円の生産」を続けているのなら、「お金は増えていく」のだ、その増えた分を利用すれば良い、それは納得?にはなるかも。
良くも悪くも、それはここに全てが集中している、と言う理解その先の話ではある。
”ここ”が、一文字10円を「生産」し続けているのなら?この構造は、「利益性を持っている」事になる。そしてそれなら?日々無意味にか続けるネットへの記載、それもまた、”そう言う意味を持つ”訳だ。
そこから先は、官僚的な?それは官僚の仕事、だろうか、ともかくそう言う物には成る。「何処にどれだけ消費したか?」で、世間でお金が増えるか減るかが決まるのだ。現在のその「一文字10円」それを、どこへ投入しているか?で、その先の結果は変わってくる、それは果たして?
「ラウンドワン」は、微妙に上手く行ってなかった、のかもしれない。内部的な、「ボーリング的な施設」と、「ゲームセンター」その不協和音を解決出来てなかった?そこは、故に、昭和天皇的な意識の方を譲歩させる。「ボーリングなどの室内競技で一定のスコアを出したら、UFOキャッチャー等の挑戦券が貰える」それを導入する。
結果、それまでは暇つぶしの一つでしかない室内競技が、「挑戦し、努力し、研究し、達成する」そう言う、或いは今のテレビゲームとしても期待される方向性、それを明確に向く訳だ。その時それは、ゲームセンターとしても明確な?方向性となる時、それは同調し得る。
上手く行く時?それは、この領域は発展しえて、施設その物の普及も、そこへの導入されるゲーム筐体、そう言うのにも、需要は発生する訳だ。ともかく既存の施設を否定せずに済む、それは大きい。
少し考える。
人は悲痛よりも、希望の方を覚えている物なのかもしれない。
それが戦争の中に有った物としても。
使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10836155
https://publicdomainq.net/hans-andersen-brendekilde-0010384/