芦原女氏が亡くなった原因は、脚本家達の罵倒か、それとも自身の横暴か?ではある。
ともかくドラマ「セクシー田中さん」のラスト二話の脚本は、原作者本人が書いているらしい。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
同人会場とはスポーツ大会みたいな物、だろうか?
少し前までの「スポンサーが金を出してくれない!」は、「遊ぶ金を親が出してくれない!」に近い物だった、というのはある。何故か?「それは利益には成らないから」だ、邦画産業もかつて、そうやって衰退していった。「それでも描きたいんです!」に付き合う先に有るのは数多の失業者だった、訳で。昭和の「一般認識」でも、創作はヒットすれば大儲け!という感じだったが自分の感じとしても、そして世間の現実的にも、SONYが7000億円近い赤字を出してた様に、ドリームキャストが終息してしまった様に、売れない物は「良い商品でも」悉く売れなかった。それでも作り続けた、のは。単に「たのしい事がしたい」と言う衝動でしかない。昭和の頃とは根本的に何かが違う世界の中で、昭和のそれを追随というかコピー、模写するしか術が無かった業界は、何かの歪みを始めていた訳だが。
考えてみると昭和の頃と今と、現場が同じ事を言っている、のも闇深い話ではある。
創作が利益になる、なら。同人会場のサークル参加の人々は或いはある程度のお金持ち、ではある、皮肉的には間違いでもないかもしれないが。「売れる創作を創る」それは非常に難しい物だった、事をしかし。現場的にも実感出来なかった、というのは深刻な問題としてある、或いは今も。AIの台頭?は、その一つの絵としてある。グラフィックの緻密さが!というなら今頃、市場はAIに寡占されていて、それでも飽和する程に隆盛に成って世間は好景気に沸いていてもおかしくないが。
AI絵では、やっぱり価値があまりない、のだ。
「嬬魔」と言う魔物は、「そこに居る筈がない女性像」に発生する、が。その前にそれは作者、描いた人かの「意識」そこにこそ発生する。その人がその女性像を描く際の「問題意識」が、或いはそのまま適用され嬬魔となる、訳だ。AI絵にはその発生が無い、AIは如何なる要求に対しても問題意識は持たない。「人格のない創作者」からは、やっぱり「価値」必要性、そう言うのは出てこない訳だが。
その創作者らの多くの「意識」がまあ、結論で商品に成らなかった、訳で。
創作を売れなくしているのは、或いは創作者らの「意識」だった、可能性は多々あって。結局、昭和から続く「自分の願いを叶える為に!」は、やっぱり利益には繋がらない、訳だ。自分の衝動、願い、そう言う物を投影していく先に有るのは博打で破産した自身の様でしかない。何の為に描いているのか?が、そこを外れないと、創作はまあ、売れる様には成らない訳で。
良くも悪くも、何を描いても「破産してる自分」が心の隅にチラついている状態じゃないと、”創作は”利益性を持てないのかもしれない。そのくらいに窮乏してから初めて、その人は、何かを語って買って貰える様になる、というか。0から何かを生み出す、それが出来てないと創作とは言えない、それはでも、そのまま自身が0で無ければ、そこに1は発生しない、そう言う事、だろうか。
もちろん0から産まれる物が、良いモノばかりとは限らないが。
傷薬も銃も、どっちも必要な物ではある。