現象その物は、万人に共通して起こる事態だが。
それは個性の問題か、ともかく独裁者の趣味、それを世間は否定する。
本日のダイス
白:3,4:7
黒:6,6+2,6:20!
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そう言えば、「カウボーイビバップ」と言うアニメで「肉無し青椒肉絲」と言うのが出てた。いわゆる「モブの犠牲」と言うのを肉、仏教的にも命の犠牲の象徴だ、”それ”としてみれば、「犠牲は無しで頼む」と言う時、料理はそうなってしまう、のかもしれない。そして主人公は、言う。
肉が入ってないなら、”それ”は青椒肉絲じゃないんだよ。
個性の問題、というべきだろうか。”これ”が許せない、そう言うのは、不意にそこに問題として。
肉無しカレーは作れるか?というと、それは全然問題は、無い。ただ肉入りに慣れた人にとっては物足りない、それは当然か、ある。逆もあるかもしれない、野菜無し回鍋肉、それを出されて面食らう向きもあるかもしれない。世間多くにとっては、その辺適当に選択していく、のだが。創作の領域はどうも、「どっち?」それは問われたり、する。
現状、料理の世界ではアレルギーの人に、無理して喰えという事は、忌避されている。
しかし創作は、万人に認められないと意味が無い、そう言う感覚は、常にそこに有ったりは、する。
「アレルギーの人に配慮した料理を出す様に」の、その”間違った極論化”が或いは、今のポリコレ、という方向かもしれない。そもそもまずその「命令する独裁者」の実在が忌避されている、という事を、その頂点にある存在は意識しているのか否か。多くの創作者は意識出来ない、目の前で「なんかバカバカしくなった」と言うその声を、何かの策略か攻撃、そういう物に見えていく事がある。
昭和天皇は、ある意味での憧れだったのだろうか。
「それはダメだ」と言われる時、その人にとって出てくる料理は全て、肉無し青椒肉絲、そう言う作品でしかなかった、という事かもしれない。そして自分の作る野菜無し回鍋肉が世間から否定されるそこに、自身の置かれた境遇、そう言うのを意識するのかも。私は虐げられている!
「一人の犠牲も出してはならない」もちろん”自分も”だ。それは、独裁者、それも含むというべきか。
その時そこに居るのが、自分だった時の、矛盾?