何でもいいから答えを!という、その要求に対する是非は少し、思う。
自分にしろ、因果律は自分の頭の中でしか見てないのだ。辻褄さえ合えば、その後。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力、翻訳して出力
古い時代では、いや今もか、”こういう商売”は存在し得た、訳だがしかし
自分の理解では、数学の虚数は”物理的には”正しくない。マイナスにマイナスを掛けてもプラスには成らない、次元軸の一つでもマイナスが入ればそれはマイナスである。ただし、”それ”では一度ダメに成ったら2度と復活できない、という事態もあり得る為に救済措置として(・・・)UE(アンノウンエネルギー、要するに神の介入)を設定、それにより、不確定性と道理の両立が可能である、という新たな公式を設定していたり、する。
当時にしろ、その辺に関しては非常にこう、「面白い話として」書いてる部分はまあ、ある。数学者の世界には何かもっと違う理由、そう言うのが有るのだろう。ともかく理解は「どっちでもいい」という感じだった、が。ただ、状況を様々考慮する中で、ここは断言してしまう方が良い?的な、そんな気分も少し、する。
倫理観として、社会的かのマイナスを背負った人は、社会的かのマイナス的な行動をする事で、社会的には大きなプラスを創れるのだ?つまり罪人のフラグを建てられた奴は、窃盗などの犯罪を犯す事で社会にとってプラスが発生する。
いやそれはおかしい。
現状が打開し得ない理由の、何かの一因だろうか…不意に、少し想う状況では、ある。
袴田事件も、ひどい冤罪だった、という事で決着に成ろうとしている。時代背景の問題もあり、ともかく暴力的な”それ”は理不尽な悲痛を産む、のも道理ではある。良くも悪くも袴田厳さんは、事件の起きた味噌会社に勤めていたがそこで、幾つかの横流しというか窃盗?を働いており…疑いを掛けられやすい立場にあった、それは間違いなく。社長は柔道の有段者、袴田さんは元プロボクサーと、腕力で全てを解決するような環境での…何かの理不尽その現出だった、ろうか。自分が京アニ事件に「因果的なモノが」という、それに近い話だったのかも。その次点的に疑わしい長女かは、2014年にひっそりと病死している、様で。その6年後に再審が始まり、そして今回の無罪判決ではある。1953年に、白黒テレビが放送開始、6年後にカラー放送が開始。白黒テレビが殺された、的な奴は、因果になるのか或いは。
流石にその辺は、何かあるにしろ追及出来ない。視野範囲としては、虚数の存在が或いは、逆走を産んでいるのかも知れない?という、そんな感覚ではあるのだった。
少なくとも”ここ”では、虚数は存在しない、と考えた方が、まあ精神は安定するのかもしれない。なぜ人は自棄に成ってしまうのか?に、少し返答が出来るから、ではある。数学は相変わらず、一般論での理解が得にくい領域ではあるのだが。
虚数を決めた者は、”ここ”に何を仕込んだのだろう。そしてなぜ、それは今も定理であり続けるのか?