そこに何を見るか。
自由を求め、盗んだバイクとアサルトライフルで走り出した少年は、付近の住人を相当数殺害するも、最後は治安維持軍の銃撃で死にました。
その結末にある理不尽と言うかは、果たしてやむを得ない事態か。
少年、その”本人”の中では、この行動には何の問題?も無い、自身のその正義に準じただけだ、そしてそれは正しい。侵略された環境、激変し管理された世界。当時の?状況で言えばその中で「不良」とされた少年らの、そんな衝動の帰結か何かではあろうか。何故か自分は、”そう言うベクトル”は持たずに…ここまで来てしまった。
「不満」を「テロ」という形で発露した存在の末路は、何の達成にも成らない。
「犯罪者を処刑しただけだ」そこに、管理側の道理は不動な物として有る。
テロに関しては、アメリカ側の倫理観、ではある。
そのアメリカのそれは、金本位制、ではあって。
「お金とは?」「金です」しかし、この帰結は最終的には金以外の価値を認めない、事には成る?つまり世界に有る金の総量は決まっていて、富とはその分配に過ぎず、金持ちが増えれば貧者も比例して増え、人口が増えれば?それだけ人々へ分配される富は平均して減る訳だ。”世界で”だ、その帰結はつまり、アメリカが栄える時、貧しい国はそれに比例して増える、そう言う意味ではある。
”この”環境の中で、体勢に従う、それは正義か否か。
もちろん、とは言え少年に撃ち殺された住人らに、罪が有ったか?と言う話でもあるが。
道理が有っても、今も尚、これは微妙に変えられない現実でもある。
”雅”市場では、”物”に対する一人の同意=1円、ではある。その「物」をどれだけ多くの人が「好ましい」と思うか?でその物品の”価値”は決まる。人本位制?ともかくこの結果、「同意さえ有れば良い」時、創作ももちろん、「価値の担保」それに成り得る訳だ、人々が「好ましい」と思う物を創ればそれはそこに価値がある、金とは違い、それは幾らでも創造出来る訳だ、それを配れば良い。
その少年は、どっちの立場、だったのだろう。
「支配した」感覚の中で、或いは撃ち殺した少年へ、ふと思う。