俺がガンダムだ!
と言った存在が居る時、”ここ”の理解では「ガンダムとは紛争解決機構である」ので、その神判の是非は、”その”存在に、責任は集中する事には成る。ともかく「大賀さん」を超えたパワー!とか言い出せばそこに場はあるのだ、そこに入る、それは一理。そして或いは、「昭和天皇」それもまた、”そこ”にはかつて居た訳だ。現状の世間、特にシニア世代は、その影響を強く受け、そして”それ”によって黄金期と現在の環境を得ている。”それ”に逆らうそれは、好ましくない、それは多分、刷り込まれている。
断じてゲーム機などでは無い、のだ。
「私は神です、大賀さんの決定に逆らわないので」この物言いが通る、のは、かなり限定的かもしれない。”ここ”を、本来の神としてしまえば道理で結果は出せる、と言う気はするが、しかし。同時に、混沌も産む、これはその結果だろうか。
「牢陽帝」か、「大賀さん」か、本当の神様はどっち?
その先に、「私こそが」唯一のそれが居る、幻想はある。
「ガンダムとは何?」に対して、求めているモノが、結構違うのだ。「それが書いた事は現実なのだ!」と言うモノとして見るか、それとも、だ。面倒な事態の起点、だろうか、「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」での結果は、道理的には?今も変わらない。そしてそれを紛争解決機構の決定、とするなら、つまり、物語としての結果は現実の結果である。
事実の実例が、一つある訳だ。
最近、「クスィーガンダムの量産機」とか言うデザインが少し話題?には成った。物語の”それ”から見ると、私見ではむしろ「ペーネロペーの量産検討機」と見た方が良い、気はする。ペーネロペーを売り込むにしろ、その性能の量産化もパイロットの手配もかなり面倒だ、渋る連邦に対するアピールの一つとして、しかし。
ガンダムの世界では、軍需産業と言うのはその存続の為にはかなりの邪悪も始める、それが正義?としてはある。「閃光のハサウェイ」としても、結局はテロ組織に供与された理由は「戦火を起こす為」だ。その結果として、ペーネロペーの必要性を認めさせれば予算も出るし、その後もある訳で。その量産検討機をベースに「クスィーガンダム」として作られた機体それは、その為の、”それ”は単なる引き立て役に過ぎなかった。
クスィーガンダムはペーネロペーに負ける、性能が低い物として、それが結果で有り道理だ。デザインは、歴々、かなり変わってきた、今回のそれはかなりペーネロペーに近い物、にイメージは執着された、しかし。
相変わらずこの作品は、「MSデザインだけで見るとクスィーが勝つ可能性もある」とは言い難い帰結には、ふと落ちてしまう。
そこに有るのは、奇妙に、一つの結果しかない。
当時の、それは一体、何だったか。