あげちうのブロマガ

その超人としての正しさについて

民尊主義は、「ご意見番」それを創りやすい。

「その作品には欠陥がある」それで、どれだけ支持があろうと没、だ。

”それ”を超える術は、ほぼ物理に訴える以外に無くて。その前に紛争解決機構、”それ”を置いても、その集団を前にしては意味が無い、そう言う絵も、ある。もちろん?「それでは只の暴動だ」というか…客観的な視点を持つ時、正論を言う一人を数の物理でへし折ろうとする、それは”良い光景”じゃない、グロテスクでさえある。

現状、人々は”それ”で止まるだろうか?そこが問いの一つではあり。

「シン・ウルトラマン」やっぱり、ウルトラマンとしてみたら「ちょっと違う」むしろダメ、という意見はまあ、多々ある、感じ。この辺はいつもの話だ、「シン・ゴジラ」にしろ、あれをゴジラと言うにはちょっと抵抗がある。反戦とか、当時の世相と反省?を背にしないそれらに、創作としての価値は有るのか?それは重く、反論し難い。自分的には現状はこっち側だが、”向こう側”と言うのも、もちろん無視出来ない数は居る訳だ。

ただなんか、そう言う話も既に「そこはどうでもよくない?」そんな感じでは、ある。

一応、創ろうと思えば、自力で創って世界に発表出来る時代、なのだ。

単に、金を出す側が、それらを採用しない、だけだ。
そして或いは一般人さえ、”それ”を話題にさえしない。

問題にすべきとしたら”そこ”であり、作品が駄作だ、と言うか自分にとっては面白くない、”それ”はどうでも良い話なのでは。

「シン・ウルトラマン」に、お金を出す側が、というか。その先は果たして?ではある。そして、それに対してアンチする側も、結局は”それ”を議題にしてない、という現実の方が実際は重い。カウンタ制御がある現状を、”このまま維持する”事の方に、世間は比重を載せているのだ。そこに有る物は、次第にシンプルにはなりつつある、ガンダムの戦争とも言えない位に、それは単純に成ってきた。

様な感じ。

民尊主義だというか、頭でっかちでは、「有るから悪い」そう言う帰結に陥る。
だから、民主主義、多数決、”それ”は否定出来ない、という帰結は現状、有る。

まあ「金返せ!」時間も!と言う不満は、作者に向けるべきではあり、そのリスクを背負って、作者らは創作をしている訳で。それに耐えられる様なモノを、彼らは持っているのは、良くも悪くも前に居る理由ではあるのだが。

民尊主義的なご意見番が、多数の勢いでその決定を覆す、事を、「面白い」と見る側も有る訳で。

”それ”に対して否定感を持つ、のも。実際には主観の一つかもしれず。どれだけ多くの人が不満の声を上げても動かない、というその壁は、果たして正義か或いはだ。

ともかく「相変わらずウルトラマンじゃない」それは、どうも不動な一言ではある。そんな個人の主観的な一言で「没」になってしまう、その是非と言うのも重くある。

オタクの創る二次創作なんてこんなものだ、と言うそれも真理だろう。
そして、その「こんなもの」を好んできた、のが同人と言う領域かもしれず。

「同人」と言う環境を護らんとする時、このアプローチは正しかったか?だ。

問われているのは、そこなのだろう。

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