仮面ライダーが居る事が原因か?ではある。
自身の過去が、どの状況でも不利にしかならない、その場合の結果は、自己責任か。
「売春を肯定する」事で、前に出た人々、というのが少なからず、居て。ただその人々が結果を出せたか?というと、同じように最終的には否定しか得られてない訳で。自身の価値を貶めていく、事が娼婦の仕事というか、”その結果で下がる自身の数値を他の人々が喰う”事で、周囲はある程度の利益?を得ていた、という構図があって。そして今、その必要がなくなった、時。彼らに残って居るのは「薄汚れた売春婦」という負のフラグだけ、な訳だ。
もちろん?「やらせていた連中」が失脚した結果であり、その自身の損失を”彼ら”に向ける事も出来ない状況ではある。売春婦の要らない世界では、そのスキル?は忌避されるそれでしかない。新しい時代かの仮面ライダーの前では、彼等は単なる怪人ではある。それを避ける時、残って居るのは年寄りでさえあるのに何のスキルもない無能、それでしかない。
「対魔忍」だなんだとか言っても、”その”理解では敵も居ない、のだ。自身をその境遇に追い込んでいる存在を倒す!という、その結果とは、自滅のようなそれでしかない、「売春の肯定」が結局は、自傷行為のようなそれでしかない訳で。”普通”の感覚で、彼らを救うというニュアンスは存在しない、単に厄介な愚者、それでしかない。
今の理解では、昭和の頃にしろ「王の権威」その”周囲の”そこには、そういう話は無かった、のだ。あったのはその外、「独裁者を許すな!軍国主義を否定しろ、民主主義を護れ!」その人々の側、である。結果、なぜか利益性を失った”その”社会は、利益の不足を売春婦に求めた、兵を動員するかのように、だ。「正義を護らねばならない、戦争に犠牲は付き物だ」その理解でそれは続いてしまい、そのまま平成では悪化の原因を「王の権威」に向ける結果、世界が”それ”に実際は飲み込まれて行って。うっすらとした犯罪性は次第に明確なそれへと変化し、社会は未曽有の不景気に陥り、独裁性?”それ”が際立っていくに従い、今までの主張との矛盾が自身を破壊していき、そして或いは現状、安倍元首相の射殺、そういう帰結へ陥る。
理解のようなモノとして、一つの帰結には至っている。今までのそれは責任を問われ、重大な権力を喪失し、否定してた”それ”の台頭を止める理由を失った。主体は取られた、とは言える。今、構築されている「大賀さん」それを最上位としての社会に問題はないし、”これ”が今後の道理ではある訳だ。ただ、”そこ”に「仮面ライダー」としてか、「監督の監督」それは、不意に残ってはいる。
”その”主観は、世間の「客観」である。それが、やっぱり少し、問題?その原理かもしれない訳で。
「フェイスシェイダー」その容認が、そういう元売春婦的なそれの受け皿になるのか?というのはちょっとまだ、未知数だ。「身を捨てて頑張ってもダメでした」その悪夢は、今もまだ記憶に残るそれではある。本人らの「目的」としては、自身をそんな境遇に追い込んだ元凶を倒す!事だとは、マクロでは言えるがしかし。世間の「客観」は、薄汚れた過去、というそれをそれ以外の物としては見れない状況は、多分ある。
「大衆」という視点での神を「裏切った」という過失の大きさは、果たしてではある。
「輪るピングドラム」とかも懐かしい、結局ああいう作品の帰結は、自身に負のフラグを載せてしまい、記憶が残る限り、”そういう評価”は避けられなくなる、訳だが。
「大賀さんの決定に従う」時、そこにはまだ、理不尽?は残って居るのだろうか?