自分は、創作をあくまでも「漫画」的にしか考えてない。
故に、”そこ”に幾ら理想が描かれていても…それは漫画でしかない。
良くも悪くも、「運がいい」というか、それは不意に思う。「黄昏の狩人」ここに集中する悪意というか、欲望というか、そういうのを前にして、自分の他の作品が”そう”ならなかった、というのは何というか、信仰の問題だろうか?ともかく、何かの防壁の存在は感じる。逆に”それ”が仇になっている、という面は少しある、世間が理想の提示を求める時?自分のほぼ全ては「漫画だ」で、選択するそれにならない。
結局というか、「何のためにゲームは遊ぶのか?」の先だ。最終的に独裁者の存在は社会の発展を妨げる。その発生を防がねばならない、というその先はしかし、独裁者同士の物理的な戦争になる。それに至った結果というのは語るまでもなく喪失と虚無しかない、それは避けるのが人の知恵という物で。とは言え前の話、「独裁者は居てはならない」時、その否定の先で二択を帰結する方法が最終的には物理的な戦争しかないという現実はあり…そこをどう避けるか?という点で、「二択の決着」それは、常に需要として発生する。幸いというか、その結果である物を人は「面白い」と思う故に、それは、利益にさえなる。社会の発展その源泉は”ここ”に実際は有るのだ。
世界は「これ」を守らねばならないし、これを護る為に知恵と力を使わねばならない。狂気に近い衝動で独裁を目指すそれを倒す、それは世界を護るという視点で求められる行為で、そこに至らんとするそれは英雄として称えられる。世界を護る、というその仕事?それはそれとして、有る。
スポーツに熱狂し、自身も参加し、負けは負けとして許容しつつ、届かないとしても勝利を目指す。世界は”それ”を維持しなければならないし、それを歪ませようとする、それは悪だ。独裁者は要らない、倒されねばならない。その理想を目指す存在に、正義は有る。
「っていう漫画を描いたので買ってください」
「漫画ならいりません」
・・・あれ?
この感覚の是非、ではある。世間?は、業界はというか、それはその先の具現を求めた、訳だ。作者が漫画だとしてやらないそれに代わって、これの先を進もうとした、のが「黄昏の狩人」それを土台にした?「新世紀エヴァンゲリオン」なのかもしれず、その是非はまあ、問われる所ではある。自分は流石に、その先の、そこまでの事は言えない感覚はある、最初に目指していたのは、あくまでもゲームメーカー、だ。”その程度”なら?自身の「上」が提示する”それ”に対して合致しない要素に対して補正する、様な物語、それを足場にしての漫画、それを描くべきだった、が。それを自身が問う時、自身の創作その全ては、利益に対して何かの欠落を抱えた、というのは有るかも。
理想を目指すにしろ、実証した、その成果は欲しい所だ、ただの絵空事では、漫画よりたちが悪い。
「ウクライナ対ロシア」の対立は、個人的には結果が出た、という感じ、後はあまり関わるような事じゃないだろう。ウクライナが今更NATOへの加盟を申請した、としても、「自力での維持が困難なので」他に理由が無い、としたら既に終わっている。住人投票で98%というそれは、その地区でのゼレンスキー大統領の支持率が2%もない、という事でしかなく…ウクライナ国民からの支持も既に怪しい状況だ。しかし、まあ確かにか、「理想のない何か」の示す道理に従うそれには、少し抵抗はある。
大衆は神である。
理想の具現は故に、「大衆」神によって成される、それが思想的には理想かもしれない。
ともかく見えては居るが、通った?か、というとそこはまだ、微妙だ。
「正義は勝つ」それは、果たして物理的に事実か、否か。